運脚についてA 投稿者:Z.K [書込:返信|新規] 2008年05月25日(日) 17時46分39秒 / ID : 0GPlHny2
(色々と忙しかったことや、内容の確認に手間取ったことから投稿時期が大幅に遅れました。まだ間違っている所があるかもしれませんので気付いた方は御指摘下さい。) 720年に6項からなる民衆の生活困窮への対策が出されていますが、その中の一つに運脚の改善策があります。 史料@(『続日本紀』720年3月条) 「但し、百姓、物を運びて京に入り、事了らば即ち早く還らしめよ。A(国に帰る程の粮無きが為に、路に在りて極めて艱辛に難む。)B(望み請はくは、在京に官物を貯へ備へ、公事に因りて物を送り還る毎に、程に准りて粮を給はむことを。)庶はくは、飢弊を免れて早く本土に還らむことを。」[註1(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀二 新日本古典文学大系13』岩波書店 1990年 P71引用 英字・( )引用者] A( )の箇所は、京に物資を運搬した農民が帰りの食料が無く、路上で苦しんでいると述べています。その対策として、B( )の箇所で、帰路に応じて食料を支給するように指示しています。僕は、当初この対策は調・庸の運脚を含む全ての運脚を対象としていると考えました。しかし、『続日本紀二 新日本古典文学大系13』に「京に調庸を除く公事の物を運ぶ百姓に帰国の粮を支給することを述べる。」[註2 前掲『続日本紀二 新日本古典文学大系13』 P69引用]とある通り調・庸の運脚は対象から除外されていました。その原因は現時点では明確に解明できていません。ただ、下記の724年の改善策でも調・庸の運脚は対策から除外されており、律令国家は調庸運脚の食料の農民負担にこだわっているように思えます。その原因として、@運脚は調・庸を納める者が負担するという律令制の規程にこだわった法律的な理由、A調庸運脚の食料を国家が支給すれば大きな負担となるという経済上の理由、B @・Aの複合などが考えられますが、もし、@が主因ならば、律令国家は現実を直視しておらず、丈庵さんの御返信にありましたように人民の困窮改善への真剣さを疑う事態だと思います。また、Aが主因だったとしても、運脚の食料を国家が負担できなかったのか?と考えた際に、今年の1月23日投稿の「浮浪・逃亡について@」でも書きましたように租の徴収により蓄積された食料が有効に活用されなかったのではないかという疑問があります。これについては、さらに調査を進めた上で投稿したいと思います。 史料A(『続日本紀』724年3月条) 「甲申、七道の諸国をして、国の大小に依りて税稲四万已上廿万束已下を割き取り、毎年に出挙して、その息利を取りて、朝集使の在京と、非時の差使と、調庸を運ぶことを除く外の京に向ふ担夫らとの粮料に充てしむ。」[註3 前掲『続日本紀二 新日本古典文学大系13』P149引用] ここでは、諸国に対して出挙により調庸以外の運脚などに対して上京のための食料を用意するよう指示しています。しかし、調庸運脚については無支給でした。僕は、これには、古代国家の社会政策の限界が表れているように思います。 また、運脚の疲弊について、食料の農民負担以外の問題点として@律令制の未整備・未成熟A駅家・駅馬を使用させないなどの制度上の欠点B社会的分業の未発達、が挙げられると思います。@はこれまでに書いたの食料負担に関する一連の改善策もその一つなのですが、他にも大宝律令施行後に改善された点があります。例えば、吉田孝氏は地域的な運脚の改善策として、調・庸を運搬しやすい物に変更した事例(714年、上総国の調が細布に、728年、美作国の庸米を綿・鉄へ変更)及び、陸路から水路に変更した事例(756年、山陽・南海道諸国からの舂米が海路へ変更)を指摘しています。[註4 吉田孝「奈良時代の社会と経済」(編者)井上光貞・永原慶二・児玉幸多・大久保利謙『日本歴史体系普及版2 律令国家の展開』山川出版社 1995年 P239〜P240参照]僕は、8世紀前半の律令国家は、法的には大宝律令で完成していたものの、現実の社会には社会経済構造と制度の不整合も多く、これも人民の疲弊の一因になったと思います。 Aについては、仮に運脚が駅家・駅馬を利用できていれば(さらには、物資輸送用の牛車・馬車が用意されていれば)、もっと運脚の負担は軽くなっていたと思います。また、都までの距離が近く運脚の負担が低いはずの京・畿内地域で税が軽い(京・畿内は、調は半減・庸は免除)のは税負担の公平上疑問に思います。 Bについてですが、律令体制下で、物資輸送に運脚が苦労した後、運送業者として問丸・馬借・車借が発達したことは経済史的には興味深いのですが、当時の律令国家が輸送の専門集団を大規模に組織することは困難であったと思います。 今後調査したいこととして、律令制は中国で生まれた制度ですが、広大な中国でも調・庸などの物税を都に運搬させていたのかどうか?という疑問が生じました。 |
返信:語句の訂正について 投稿者:丈庵 [書込:返信|新規] 2008年05月06日(火) 22時41分56秒 / ID : z240DTfA
Z.Kさん ありがとうございます。 お忙しい中でも色々調査されているようで頭の下がる思いです。 時間のあるときで構いませんのでまたよろしくお願いいたします。 > 「運脚の食料は自弁」 という表現は良く聞くところですが、 直接的な従事者のみが負担するわけではない ということなのですね。 無知なことに初めて知りました。 それは声を大にしておいても良いかもしれないですね。 言葉ひとつ、たった一文字でも伝わらないことがあると言うのは 大変なことではありますが、 ぜひともそれを操ってまいりましょう! |
語句の訂正について 投稿者:Z.K [書込:返信|新規] 2008年05月06日(火) 19時43分07秒 / ID : z240DTfA
運脚についてAは、色々と忙しかったことや、内容の確認に手間取ったことから投稿時期が大幅に遅れていますが近いうちに完成させたいと思います。 運脚について@で、僕は運脚の食料負担について国家による食料支給の反対の言葉として「自己負担」という言葉を使いました。しかし、引用した『岩波 日本史辞典』にある通り食料は運脚に従事する農民本人だけでなく調庸を納める戸が負担することになっていたのですから「自己負担」という言葉は適切でなかったと思います。今後は、「農民による負担」又は「(律令国家の調庸運脚への)食料の無支給」と表記したいと思います。 ※「運脚の食料は自弁」という表現は用いられることがあり、訂正が必要かどうか迷いましたが、やはり現実の負担状況を考えた場合「自己負担」という言い方は適切でないと思い訂正を掲載させてもらうことにしました。 |
返信:運脚について@ 投稿者:丈庵 [書込:返信|新規] 2008年02月24日(日) 21時06分19秒 / ID : 8K7afN/k
運脚など、この当時の長距離移動に関しては、公務においても 自弁というのは、ど素人でも大いなる負担になるであろうことは 想像に難くない部分ではないかと思います。 やはり、国家としても対策を段階的に採っていたと言うことなわけですね。 とはいえ、全体的に改善しようという意思が本当にあったのか否か かなり疑問の余地が残るような気がします。 経済も交通も未発達の中で、役人の移動を管理していくというのは 困難なことだと感じます。 |
運脚について@ 投稿者:Z.K [書込:返信|新規] 2008年02月23日(土) 14時04分41秒 / ID : vDFsdMzI
古代民衆の困窮の中で、運脚についての現時点での調査結果です。『岩波 日本史辞典』は運脚について次のように述べています。「律令制において、調庸などの貢納物の地方から中央への輸送に、国司・郡司に指揮されて従事した者。担夫・脚夫とも。徒歩で物資を担いで輸送する。調庸を納める戸が運脚とその食料を出した。正税で交易された進上物の運脚には国司が食料を支給した。724(神亀1)以後は、舂米運京にも公粮を支給。」〔註1(監修)永原慶二『岩波 日本史辞典』岩波書店 1999年 P118引用〕 僕が注目しているのは、第1点目に運脚の疲弊が問題となり、改善策が取られていったにもかかわらず、調庸運脚の食料自己負担制は継続されたことです。第2点目として、正税で交易した進上物や舂米の運脚には食料が支給されたということは、調庸運脚にも国家による食料の支給が可能であったのではないかということです。前に書いた田租の使用状況はさらにその思いを強くさせます。 続いて、運脚の疲弊と改善策を示した史料を幾つか検討したいと思います。 史料@(『続日本紀』712年10月条) 「乙丑、詔して曰はく、「A(諸国の役夫と運脚の者と、郷に還る日、粮食乏少にして、達ること得るに由无し。)B(郡稲を割きて別に便の地に貯へ、役夫の到るに随ひて任に交易せしむべし。また、行旅の人をして必ず銭を齎ちて資とし、因て重担の労を息め、亦銭を用ゐる便を知らしめよ)」とのたまふ。」[註2(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P189引用 英字・( )引用者] A( )の部分は役夫・運脚が帰途の食料が欠乏して苦しんでいると述べています。これと同じような現象が平城京造営の役民で発生しています。(史料『続日本紀』712年1月条参照)僕は、律令国家による課役特有の民衆への打撃として交通が未発達な中で遠距離移動を強いられる点があると思います。−僕は、単純に税率で表せない負担としてこの点に注目しています。対策として、B( )の箇所で旅人のために郡稲を用意し、旅人は貨幣を持つようにと述べています。しかし、これでは郡稲は貨幣による購入であり、役民・運脚の食料が自己負担であることに変わりはなく、大きな改善は期待できないと思います。B( )の後半部分で食料を持つ重さが軽減されると述べていますが、僕はこの対策の効果は限定的であったと考えます。この後、繰り返し運脚の改善策が『続日本紀』に表れることもそれを示していると思います。次の改善策については、次回に投稿したいと思います。 |
返信:ありがとうございます 投稿者:丈庵 [書込:返信|新規] 2008年02月03日(日) 22時07分00秒 / ID : xgrvOAqM
歴史に興味のある方には もっともっと奥の深さを知ってほしいという思いでいますので、 ぜひいずれかの機会に一歩踏み出してみてくださいね! |
ありがとうございます 投稿者:凛 [書込:返信|新規] 2008年02月03日(日) 21時14分31秒 / ID : xgrvOAqM
昨日質問したばかりですのに、こんなにも早く、 解りやすく、そして詳しい説明をしてくださり、ありがとうございました。 政所には「執事」もいた、ということですね。 「別当」の補佐に当たる「所司」もいた訳けですから、 そのあたりの詳しい仕組みが気になります。 テストに出るわけではないので、教えていただいたことを参考に、 ゆっくりと気長に資料をあさっていきたいと思います。 「吾妻鏡」は以前から読んでみたいと思ってはいたものの、 歴史的背景をつかめないうちは難しそうだと思い、断念していました。 是非、参考文献を見て、読んでみたいと思います。 |
返信:初めまして。 投稿者:丈庵 [書込:返信|新規] 2008年02月03日(日) 11時18分09秒 / ID : xgrvOAqM
凛さん、はじめまして。 お越しいただきありがとうございます。 このHPが多少なりともお役に立っているならば幸いです。 鎌倉時代の政所、侍所、問注所の長官に関してのご質問ですね。 僕も早速少しではありますが、当たってみました。 まず、政所ですが、頼朝も設置はしていますが、 平安時代中期より設置されているものです。 一方問注所は頼朝が新しく設置したものですので、成立年代は違います。 さて、そもそもの別当という言葉ですが、 律令官制できちんと官を定められている人が 「別」の機関の長官職に「当」たることが由来ですが、 後には専任でも別当というようになりました。 執事は院別当の統括者、摂関家の家政の掌握者のことをいいましたが、 鎌倉時代には問注所などの長のことを指していいました。 政所の別当は結局は北条氏が世襲していきますが、 執事もいて二階堂氏が世襲していきます。 室町時代の1379年には別当が置かれなくなってしまったので、 執事が長官になります。 優越という点で言えば、政所には別当も執事もあったわけですから 別当の方が上になります。 (今の衆議院と参議院のように優越が明確に定められていたかについては 調べていないので何ともいえませんが) 名称としてはもちろん違いますが、長官である、という点においては 意味的には似通ったものと考えてよいのではないでしょうか。 (どなたか補足・訂正してくださる方がいらしたらよろしくお願いします!) 参考文献としては、 鎌倉時代の正史といえるものに、内容の吟味には慎重さを要しますが、 『吾妻鏡』があります。 とはいえ、原書などをいきなり読むのは難しいと思いますので、 鎌倉時代について広範に書かれているものから入ると良いと思います。 簡単な所では『國史大辞典』の項目の最後には参考文献が出ていますので、 見てみるとよいかもしれません。 |
初めまして。 投稿者:凛 [書込:返信|新規] 2008年02月02日(土) 19時55分17秒 / ID : CdWcU7uk
はじめまして。歴史が好きで、色々なサイトを見てまわっていたところ、 こちらのサイトさんにたどり着きました。とても参考になります。 学術的な内容を伴うのか自信が無いのですが、自力で調べてもわからず、 どの資料で調べたら良いのかわらず、教えていただきたい事があるので、 こちらの掲示板を使用させていただきました。 鎌倉時代には、政所、侍所、問注所と三つの役職がありましたよね。 何故、問注所のトップはは「別当」ではなく、「執事」なのでしょうか? 政所と問注所は同じ時期に出来たと記憶しておりますが・・・。 そして、室町時代になると、政所の長官はトップは執事ですよね。 「執事」と「別当」は、単なる名称の違いだけでなく、 優越などがあったり、なれる人の条件が合ったりするのでしょうか? 授業時にふと気になったのですが、調べてもなかなか資料がありません。 もしご存知でしたら、教えていただければ、と、思います。 なお、参考文献などもありましたら、教えてください。 |
返信:浮浪・逃亡について@ 投稿者:丈庵 [書込:返信|新規] 2008年01月27日(日) 20時34分33秒 / ID : 9NmM5JeI
まずご質問に対してのお答えですが、骨太と日本史の記述が曖昧である事に起因しており、申しわけなかったのですが、徴税そのものは毎年、6年ごとというのは戸籍の作成のこととなります。 Z.Kさんの仰るとおり、賑給への使用については有効性に疑問を感じる先行研究が多いようですね。そうなると、それを補完するほかの資料や、社会的な状況を挙げられれば、よりその論が強化されそうですね。 |
浮浪・逃亡について@ 投稿者:Z.K [書込:返信|新規] 2008年01月23日(水) 17時26分20秒 / ID : ZqYMyxyk
古代民衆の浮浪・逃亡は、大学時代から注目してきたことで僕の古代史に関する調査・研究の出発点でもあります。特に長山泰孝氏の「生活の防衛と抵抗」の次の箇所は今でも強く印象に残っています。「その意味で農民の反税運動こそは律令支配体制の矛盾を集中的にあらわすものであった。(中略)農民がみせた反税の動きのなかでもっとも広汎に行なわれたのは逃亡であった。」(注1)長山泰孝「生活の防衛と抵抗」(編集委員代表)門脇禎二『日本生活文化史2 庶民生活と貴族生活』河出書房新社 1975年 P212引用 困窮した古代民衆が浮浪・逃亡を行ったことは、奈良時代の社会経済状況に関する文献によく出てきます。しかし、浮浪・逃亡の原因・背景を調査するには、「律令体制下における農民の浮浪・逃亡」として調べるだけでなく、もっと細かく分類しなければ有効な効果は得られないと思います。例えば、@律令国家の税制度 A律令国家の土地制度 B @・A以外の社会経済構造上の問題点 C律令制の運用上の問題 として調査するべきだと思います。注目点として、@では税制の変遷の中には、農民が浮浪・逃亡等により律令国家から減税などの譲歩を引き出した抵抗の成果とも言えるものがあると思います。−これが、農民の抵抗の最大の意義であったと思います。−そのため、税制の変遷は農民がどのように重税に苦しんだかを知る手がかりであると考えます。Aについては、浮浪・逃亡にはよく重税が指摘されると思いますが、それ以外にも班田収受制が制度通り実行されたのかや制度自体の問題点なども調査すべきだと思います。Bについての注目点は、すでに何度か投稿しました国家と豪族の二重搾取の問題や租などにより備蓄した食糧の活用についての疑問点があります。Cとして、蝦夷・隼人との戦争や平城京・平安京の造営などがあります。 具体的なことは、次回以降に投稿したいと思いますが、今回、租について僕が注目している点を書きたいと思います。岩波書店『律令』の税制に関する解説には次のような記述があります。「天平時代の正税帳によれば、毎年徴収される田租は、もっぱらその国で遠年貯備され、使用例としては恩勅による賑給などがわずかに見出されるにすぎない。」(注2)(校注者)井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫『律令』岩波書店 1976年 P570引用 まず、丈庵さんへの御質問なのですが、上記の『律令』の記事を読む限りにおいては、租は毎年徴収していたように思えるのですが、「骨太日本史−中学生向け通史・大和3/奈良」にある通り徴収は6年に一度だったのでしょうか?(日本史辞典や高校の時の参考書も確認しましたが、6年に一度という記述はみつかりませんでした。今回は誤字の指摘ではなく、完全な質問ですので公開の掲示板を使わせて頂きました。税制が変更された可能性や複数の説がある可能性もあると思います。) 次にこれを読んだ感想として、古代国家の社会政策の限界を表しているように思います。『続日本紀』には前に「慶雲の改革についてA」で投稿したように賑給に関する記述が多くあるのですが、賑給への使用がわずかというのでは有効性に疑問を抱きます。(ただし、義倉はあったのですが。)さらに、賑給以外にも調庸の運脚や兵役への手当てなど民衆のために使うべきところは沢山あったはずで不可解に思います。これについては、さらに調査を続けたいと思います。 一方、古代人民の浮浪・逃亡という全体的な問題としては大学時代の経済史の本を読み返していた所ある疑問が生じたのですが、これについては次回以降に投稿したいと思います。 |
返信:無題 投稿者:丈庵 [書込:返信|新規] 2008年01月06日(日) 20時58分27秒 / ID : ndxm2zJg
Z.Kさん 地道に調査が続いているようで素晴らしいですね! やはりこれを拝見しますと、国家の理念による支配と、豪族の慣習による支配が衝突した時、国家として取るべき、守らせるべき道として詔を追加しているように見えますね。 そうすると国家としては、過酷にしすぎて農民が疲弊し過ぎないように、という農民を思いやるものにも思えますが、税金を取りはぐれないように、それによる国家の傾きを防ぎたいが、豪族には面と向かっていいがたい、といった板ばさみというか、権力がまだ磐石ではないような雰囲気も感じますね。 |
無題 投稿者:Z.K [書込:返信|新規] 2007年12月28日(金) 13時17分38秒 / ID : KnaWb1lo
慶雲の改革の後、社会経済史において僕が注目しているのは、706年3月の次の詔です。 史料1(『続日本紀』706年3月条) A(また、詔して曰はく、「軒冕の群、代耕の禄を受け、有秩の類、民の農を妨ぐること無し。故に、召伯は所以に甘棠に憩ひ、公休は其に由りて園葵を抜きき。B(頃者、王公諸臣、多く山沢を占めて、耕種を事とせず。競ひて貪婪を懐ひて、空しく地の利を妨ぐ。)C(若し百姓の柴草を採る者有らば、仍ちその器を奪ひて、大きに辛苦しましむ。)D(加以、地を賜はること、実に止一二畝有るのみ。是に由りて、峯を踰え谷を跨びて、浪に境界とす。今より以後、更に然ること得ざれ。)但し、氏々の祖の墓と百姓の宅の辺とに、樹を栽ゑて林とすること、并せて周二三十許歩ならむは、禁の限に在らず」とのたまふ。 [注1(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P103・105引用 英字・( )引用者] 史料2(「養老律令」 雑令9後半部分) 自余の禁処に非ざらむは、山川藪沢の利は、公私共にせよ。[注2(校注者)井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫『律令』岩波書店 1976 P477引用] 史料1は、王公諸臣が不正に山野を占有し[B( )・D( )参照]、農民の利を害している[C( )参照]としてこれの禁止を指示しています。僕は、当初はこの詔を慶雲の改革の一つとして捉えました。一般的には慶雲の改革には含まれませんが(『国史大辞典』の「慶雲の改革」は、史料1の詔について触れていません。)、この詔は土地国有制を強化するもので、改革の一環であると考えました。しかし、吉村武彦氏の著書『日本古代の社会と国家』において、吉村氏は史料1の706年3月の詔、及び前後の類似・関連する史料、史料2の養老令雑令9を分析し、「この条文は、『令集解』雑令の散逸で大宝令は復元できないが、大同元年官符から同趣旨の大宝令文が存在したと想定される。」(注3 吉村武彦『日本古代の社会と国家』岩波書店 1996 P219引用)と述べています。これからすると、農民の支援という点では706年2月の詔の減税の箇所と同じですが、これは律令を改正するものではなく遵守を求めるものとなりますから、慶雲3年の改革の一環として捉えるには無理があるという結論に達しました。僕は、706年頃の律令国家の自然災害や制度上の問題への対応は、減税による負担軽減だけでなく律令体制の強化という対策も行われたと思います。また、吉村氏は山川藪沢に対する政策について、「その意義は山川藪沢にたいする国家の支配体制の創出であるが、現実的には常に支配階級による山川藪沢の独占的占有を排することにあった。つまり、一般百姓の利用―山川藪沢における百姓の農業生産、生活上の必須物の獲得―を保護し、それによって、百姓の豪族たちとの隷属関係およびそれへの契機を摘みとり、律令制国家の百姓に対する支配体制の安定化を企図したのである。」(注4 前掲『日本古代の社会と国家』P219引用)と述べています。これは、史料1の詔だけでなく、その前後にある同趣旨の詔も含めての見解で、その通りだと思いますが、史料1の詔について僕の考えを追加したいと思います。A( )の部分も併せて考えると、この詔は、有力者は禄の支給を受けており人民の農業を妨げるべきでないにもかかわらず、共有地を占有し農民を苦しめていると述べていると思います。(史料の中で、主語が軒冕の群・有秩の類・王公諸臣と微妙に代わっているのですが、全体的に考えるとこのような趣旨だと思います。) そして、律令国家が官人に支給した禄は農民に課された調や庸により支払われたはずです。したがって、王公諸臣は律令制を通して農民から禄を取得し、さらに支配地を拡大することで二重に農民を苦しめています。それを批判するこの詔は、律令国家が支配構造を一元化しようとしているという言い方もできると思います。また、吉村氏の見解の中で、終盤の箇所は農民の側に立って考えると農民は国家と豪族の両方に支配されていると言えると思います。吉村氏が述べているように、律令国家はそれを是正しようとしたのですが、この史料1の詔と類似の史料はこの後にも多くあり効果には疑問を感じます。僕は、前に書いた律令体制下での二重支配との関連としても、この共有地の問題に注目しました。−ただし、律令国家も調・庸や兵役などで民衆に大きな負担をかけたのですから必ずしも当時の中間支配階級的な層だけを批判することはできないと思います。 また、僕にとって律令国家体制を調査研究する面白さの一つは、制度及び国家理念と現実との乖離・矛盾です。史料1の詔は、三世一身法・墾田永年私財法以前にすでに公地公民制には限界があったことを示していると思います。 |
返信:慶雲の改革についてA 投稿者:丈庵 [書込:返信|新規] 2007年10月17日(水) 20時37分27秒 / ID : UQi9W7Zg
Z.Kさん 順調に調査が進んでいるようですね。 確かに、Z.Kさんの挙げて頂いた資料を見る限りは、国が賑給・減税を指示していて いい政策をしていると感じられます。 さらにZ.Kさんがおっしゃっているように、本当にそうなのか、という裏づけが 取れるか否かが問題だと思いますので、 実際には地方ではどうだったのか、この政策はどこまで実行されたのか、 そういったことが別の信頼できる資料から判断できれば 確固たるモノになると思います! |
無題 投稿者:Z.K [書込:返信|新規] 2007年10月08日(月) 17時55分21秒 / ID : 9jVjNSNI
慶雲の改革についてAでWordで作成した原稿を投稿記事作成画面にコピーした際、アンダーラインが消えてしまったようです。アンダーラインの箇所は、史料をよく読んでいただければ大体わかると思うのですが、表示されていないことに気づかずすみませんでした。以後、注意します。 |
慶雲の改革についてA 投稿者:Z.K [書込:返信|新規] 2007年10月08日(月) 17時46分28秒 / ID : 9jVjNSNI
丈庵さんの御返信にもありましたように、慶雲の改革を単純に「庶民のため」ということはできないと思います。その理由の一つとして、慶雲の改革後すぐの律令国家の政治があります。律令国家は、708年に平城京遷都を決定し、709年には蝦夷との大きな戦いが発生しています。これは、805年の徳政相論で人民を苦しめていると指摘された「軍事」「造作」であり民衆のための政治と言えるものではないと思います。(ただし、これは元明天皇期の政府を批判するよりは、同じようなことを繰り返した桓武天皇期の政策に問題があるという見方もできると思います。)僕は、706年に人民の負担軽減が行われた要因に慶雲の改革直前には全国的に災害・飢饉が発生したため、民衆の窮乏が高まり負担軽減が求められていたことがあると考えています。慶雲の改革前年の社会情勢を示す史料として、『続日本紀』には次のような記述があります。史料@(『続日本紀』705年8月条)「八月戊午、詔して曰はく、「(A)陰陽度を失ひ、炎旱旬に弥る。百姓飢荒して、或は罪網に陥る。天下に大赦して、民とともに更新むべし。死罪已下は、罪の軽重と無く、咸く赦除せ。(B)老病と鰥寡惸独との、自存すること能はぬ者には、量りて賑恤を加へよ。その八虐と、常赦の免さぬとは、赦の限に在らず。(C)また、諸国の調の半を免す」とのたまふ。」[註1(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P89引用 英字・傍線引用者] 史料A(『続日本紀』705年10月条)「冬十月壬申、詔して、使を五道に遣して、山陽・西海道を除く。高年と、老疾・鰥寡惸独とを賑恤し、并せて当年の調の半を免さしめたまふ。」(註2 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P91引用) 史料B(『続日本紀』705年最終記事)「是の年、諸国廿、飢ゑ疫しぬ。並に医・薬を加へて賑恤せしむ。」(註3 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P93引用)史料@の傍線部(A)からは、天候不順により農民が飢餓に陥っていることが分かると思います。その対応策として社会的弱者への賑給[傍線部(B)参照]や諸国の調の半減[傍線部(C)]などを命じています。すでに、705年4月には、不作のため大税出挙の利稲の免除と庸の半減が行われていました(註4 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P85参照)ので、この年の不作は深刻であったと思います。その2カ月後の史料Aでは、再度社会的弱者への賑給と調の半減が指示されています。これにより、五道各国(七道の内、山陽道・西海道以外)の調は全免となりました。(註5 史料Aのこの解釈は、前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P90参照)史料からは、具体的な飢餓の犠牲者数や農作物の減収量は不明ですが、調の全免が広範囲に行われたこと、及び史料Bの20カ国が飢餓・疫病に見舞われたとの記載から705年は日本各地が深刻な災害に襲われたと思います。さらに、翌706年にも広範囲に疫病が発生したとの記述が『続日本紀』にあります。僕は、律令国家にとって畿内での疫病発生は特に深刻な事態であったと思います。史料C(『続日本紀』706年1月条)「京畿と紀伊・因幡・参河・駿河等との国、並に疫す。医・薬を給ひて療さしむ。」(註6 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P95引用)僕は、706年の改革は大宝律令の欠点の是正と[改革を述べる詔は「准レ令〜」で始まっています。(註7 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P98〜100参照)、飢餓・疫病が多発した当時の社会情勢により行われたと推測します。『続日本紀』(史料@〜C)を見た限りでは、律令国家は飢餓が発生すれば賑給(史料では賑恤と表記)・減税を行い、病気が流行すれば医療を提供しており古代国家の社会政策は機能していたように見えると思います。(ただし、史料からは具体的な賑給・医療の対象者数や使用された物資の量は不明です。)しかし、ある程度は評価すべきだと思いますが、僕は、地方の備蓄食糧の使用状況を調査した結果では賑給の有効性に疑問を抱いています。(租や公出挙により地方で集められた食糧の使用状況は、大学時代から注目してきたテーマです。しかし、未だに資料分析や自分の考えをまとめるのに手間取っているのですが、完了次第、報告したいと思います。 |
返信:無題 投稿者:丈庵 [書込:返信|新規] 2007年09月05日(水) 22時56分56秒 / ID : aqOpatV6
うさねこさん 連絡ありがとうございます。 再開の日を心待ちにしております! 僕も今自分の人生の岐路に立っていて、なかなか更新がままなりませんが ユルユルとライフワークの如くすすめて生きたいと思います。 今後とも、宜しくお願いしますね。 |
無題 投稿者:うさねこ [書込:返信|新規] 2007年09月05日(水) 02時15分25秒 / ID : aqOpatV6
たいへんご無沙汰しています。お元気でしょうか。 実は今後の私にとって非常に重要な用件が舞い込んだため、しばらくHPの更新を休むことにしました。原稿は書きたまっているのですが、ちょっと優先しなければならない事態が発生してしまいまして・・・。 しばらくのちに復活しますので、これからもどうかよろしくです。ちなみに「倶楽部ジパング」という姉妹サイトでは今までどおり掲載を継続しておりますので、よろしくです。ペコリ。 今まであまり気にとめなかったことなのですが、丈庵さんの年賀状、すごく面白いですね。ついつい見入ってしまいました。 Z・Kさんと丈庵さんの歴史研究の方法論についてのやり取りも、とても参考にさせていただいております。 |
返信:慶雲の改革について@ 投稿者:丈庵 [書込:返信|新規] 2007年08月31日(金) 10時34分16秒 / ID : ADYMhsM.
Z.Kさん 色々お調べになっていますね。 慶雲の改革を学校なりで学ぶと、庶民のための改革といった教わり方をするかと思いますが、これを読む限りにおいては、やはりそうではない実態がうかがわれますね。 この当時の官僚階級が、庶民をどのように捉えていたかと考えれば、生かさぬよう殺さぬよう、の繋がる部分があるように思えます。そう考えると、この改革も一面では庶民のためのように見えますが、実際にそれで官僚や国は損をしないようになっているのではないかなと思えます。 引き続き宜しくお願いしますね! |
慶雲の改革について@ 投稿者:Z.K [書込:返信|新規] 2007年08月19日(日) 19時19分28秒 / ID : 5YRr9O56
702年の大宝律令施行後、最初の経済史上の大きな出来事として706年(慶雲3年)の改革(慶雲の改革)があると思います。僕がこの改革に注目した理由はこの時期の改革には律令制自体の問題点がよく表れていると考えるからです。(八世紀中盤になると政争・度重なる遷都・大仏建立といった律令制とは直接関係ない原因による社会・経済上の問題が多くなると思います。)慶雲の改革には、位封の増額・支給対象の四位以上への拡大など貴族・官人層向けの改革もありますが、民衆の生活に関係が深いものとして@京・畿内での調の個人別徴収から戸別徴収への変更A庸の半減B義倉徴収の緩和があると思います。位封の増加は間接的に民衆の負担が重くなる気がしますが、基本的に慶雲の改革は人民の負担を軽減するものであったと考えています。@の理由について『続日本紀』は、「外邦の民と異にして、内国の口を優くす。」(註1(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P99引用)と京・畿内地域の人民を優遇するため制度変更したと述べています。これは、民衆の調の負担の重さを示しているとも考えられますが、適切な政策であったかは疑問に感じます。京・畿内での調は他地域の半分であり、平城京にも近いため運脚の負担も軽いはずです。僕は、京・畿内での調の半減・庸の免除だけでも不公平だと思いますが、その上に制度改正を行い負担軽減を図るのは、他地域とのバランスを欠くのではないかと思います。また、調の調達の関係上、律令政府は個人別徴収よりも戸別徴収の方が現実に適していると考えた可能性はあると思います。しかし、調の戸別徴収は725年以前に廃止されており(註2 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P374参照)、最長でも20年しか続かなかったのですから有効な政策ではなかったと思います。Aの庸の半減は、ほぼ継続されたこと(717年以降は、正丁一人につき布1丈4尺)から適切な政策であったと思います。しかし一方で、『続日本紀』は「その大宰の所部は、皆、庸を収めむことを免す。」(註3 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P101引用)と大宰府管内諸国での庸を全て免除すると述べています。僕は、庸は民衆の重い負担となっていたと考えていますが、この政策は税負担の公平性という観点からは疑問に思います。防人は東国から多く調達されており大宰府の軍事力を維持するための負担は東国に重く掛かっていたと思うからです。また、大宰府管内諸国の庸の免除は718年に廃止されており(註4 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P374参照)、このことからも有効な政策だったかどうか疑問に思います。Bの義倉について、『続日本紀』は「是れ義倉の物は、窮民に給ひ養はむとして、預め儲け備へむとなり。今貧しき戸の物を取りて、還りて乏しき家の人に給ふは、理に安からず。今より以後、中々以上の戸の粟を取りて義倉とし、必ず窮乏に給ひて、他に用ゐること得ざれ。」(註5 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P101引用)とー困窮者のための義倉を貧民から徴収して、貧しい者に支給するのは、不合理である。今後は、中々以上の戸から徴収して必ず窮乏者のために使用し、目的外に使用しないようにせよ―という意のことを述べています。これは、律令の理念(儒学思想―異なる見解もありますが、僕は1月13日の投稿記事で書いたように律令法典を構成する基本思想は儒学であったと考えています。)に合致した改革であったと思います。義倉の徴収方法はこの後、数回変わっていますが、僕は徴収した義倉・租を有効に活用できたのかどうかに最も関心を持っています。 慶雲の改革についてAでは、慶雲の改革前の社会・経済情勢について検討したいと思います。 |
返信:銀閣と東大寺 投稿者:丈庵 [書込:返信|新規] 2007年07月03日(火) 22時05分22秒 / ID : S.QB7dmE
Z.Kさん E.H.カーの「歴史は繰り返す」ではないですが、歴史は似たような出来事が繰り返すのではないかと思います。だからこそ、歴史を学ぶことで、先見性を養うことにもなるのだと思います。 銀閣は銀箔を最初から貼る予定ではなかったという説もありますが、いずれにせよ、義政が政治にあまり関心を持たずにいたということは言えそうです。なぜ義政が政治に関心をあまり示さなかったのか、ということを突き詰めて行っても、義政=悪という簡単な図式にはなりえないのではないかなと思います。 うさねこさん 子どもと哲学性というのは縁遠いような気はしますが、実は色々な物事への偏見などがない目で見られるという点においては、すぐれた視点をもっているのだなと思えます。 恐らく、電車の中の子どもも、そういう素質をその時に親が見つめてあげられなかったことで、その芽はきっと萎んでしまうのでしょうが、子どもがもっているその哲学性は、時として大人を驚かせるのだなと思いました。僕自身も頭が相当に固くなっているのだなと驚きつつも思うのでした。 |
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