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無題 投稿者:うさねこ
  [書込:返信|新規] 2006年11月21日(火) 22時14分04秒

   「聖徳太子の冠位」を読みました。よく似たことが、私の大学時代にありました。民事訴訟法の大家で、司法試験に全国トップで合格したという伝説的エリート教授が、国際的問題について語る・・・という講演会に駆り出されていったところ、最初から最後まで、蒋介石と毛沢東を違えて話して、聴衆を半ば白けさせていました。「日中戦争の時、国民党を率いていた毛沢東は・・・」「若いころ、日本に留学したことのある毛沢東は・・・」「宋家と縁組に成功した毛沢東は・・・」よほど、「では戦後、共産党の主席になって、毛沢東を台湾に追いやった蒋介石についてどう思いますか」と言おうとしましたが、やめました。この先生は専門性に閉じこもりがちな法学部の世界では「話題豊富な人物」として有名でしたが、普段の授業から、創価学会の母体を「日蓮宗」と言ったり(正確には日蓮正宗)法学者フォイエルバッハに作曲家の兄弟がいるといったり(これはリストの間違い。フォイエルバッハは親子関係に唯物論哲学者がいるのでそれを混同したのか)とにかく、間違いの話題豊富の多いエリート先生でした。話題豊富であるべきだというその先生の考えはすばらしいのですが、やはり、あまりにも明確な基本的間違いは、脱力感を招くもので、ちょっと辟易としていました。ただこの話は、「エリート教授なんてこんなレベル」というふうに思うべきではない、とも思います。もしかしたら、彼に注意しない私達の方に、何か巨大な反省点があるのかもしれません。少なくともいえることは、その先生に出会ってから、自分は些細なことでも、準備する話題には非常に気を使うようになりました。周りが注意してくれず裸の王様になるのが怖くなったからですね。そのためには歴史から政治経済、科学にいたるまでの万能的な辞書がどうしても必要なのですが、インターネットはその点非常に便利な辞書的存在だと思いますね。


返信:無題 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2006年11月14日(火) 22時52分25秒

  迷惑をかけなければ何でも好きなようにしていい、という間違った風潮がある気がしてなりません。なぜなのか、と突き詰めて考えていく行為を疎かにして、言の葉を口上に乗せるのは、片手落ちもいいところかと思います。大人が核の議論をしてはいけない、することすら悪だ、というのはいわばその延長かと思えてなりません。子どもたちにそういった考える習慣がない、「I」を主語に話を出来ず、しても「〜じゃないですか?」と伺う話し方しかできない。没個性の中で必至に個性を出そうと外面を取り繕う、またそれが違いすぎたら仲間外れになるから、あくまで仲間に認められるレベルでの個性を出そうとして、結局他と変わらない没個性を生む。そんなように僕には見えます。だからこその質問を僕もタチが悪いですから子どもにしていたのですけれど、果たして何人気づいてくれたでしょうか。


無題 投稿者:うさねこ
  [書込:返信|新規] 2006年11月14日(火) 22時07分38秒

   「中学生の茶髪観」に深く感銘を受けました。おっしゃるように、「相手に迷惑をかけない」という基準の何と曖昧で、しかし何とこの日本社会に支配的であることか!「迷惑をかけなければ・・・」というのは、最も醜い日本語であるとさえ思います。たとえば引きこもり、ニートは誰にも迷惑をかけないけれど、許されたことなのか。あるいは麻薬常用というのは、決して誰にも迷惑をかけていないけれど、なぜ許されない行為になっているのか。「校則」「常識」も皆同じで、要するに、無思考的な他律(他人語)の世界に身を置いて判断を任せているに過ぎないのですね。私はいつも思うのですけれど、茶髪をするような人間は、体制に反発する子、つまり他律だらけのこの世界の規則に反発するような子達なのに、やはり彼らも「他律」で自分を防御している場合がほとんどですね。彼らが「私は思う」というふうに、自律で防御できれば、本当の意味で彼らが憎む他律の世界に反旗を翻したことになるのではないでしょうか。私に言わせれば、全然ぐれていない。自己チュウでも何でもない。ゆえに私は茶髪を楽しんでいる中学生は浅はかとしか思えないのですけれどね。
  


返信:無題 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2006年11月07日(火) 22時59分41秒

  何を見ても、そこから何を学び取るかは人次第ですからね。ヤマトから共産主義へ目覚めた視点というのもあるのですね。
  松本零士さんにインタビューをされたことがあるのですか!それはいい思い出になりそうですね。連合艦隊をもう一度正しい世界に蘇らせたいというのは、正しい世界がどのような世界をさしているのか分かりませんが、正しい世界とやらに軍隊を作る、という発想がとても興味深いですね。その目的がどこにあるかが問題ですよね。


無題 投稿者:うさねこ
  [書込:返信|新規] 2006年11月06日(月) 03時02分16秒

  おやおや、今度はヤマトですね。私はヤマトの世界は使命感とか救済というテーマが強すぎて、ちょっと好きになれませんでした。もちろん、丈庵さんが言われるように、ヤマトのキャラクターはそれぞれにとてもすばらしいと思いますけれどね。学生時代、私をしつこく勧誘してきた民青(共産党)の学生が、ヤマトを観て自分は共産主義に目覚めたみたいなことを言っていましたけど、これ、案外洒落になっていない勘違いですね。私はキャプテンハーロックの方が全然好きで、今でもアルカディア号の名前聞くと、心がときめいてきます。ハーロックの方が気楽だからですね。私はノンキな人間ですから、ヤマトの乗組員にはなりたくないけど、アルカディア号には喜び勇んで乗りたいですね。
    これはちょっとした自慢なんですけれど、私、大学生時代、学生新聞のインタビューで松本さんにインタビューしたことがあるんですよ。やはり、二次大戦の戦史の影響を自分はものすごく受けているっておっしゃっていました。連合艦隊をもう一度、今度はより正しい世界によみがえらせたい、ということでした。そして大のクラシック好きで、特にワーグナーが大好きで、悪=ドイツのイメージも、ワーグナー趣味が高じて、ということみたいでした。そして松本さんは大のお酒好き。これはヤマトの佐渡酒造やハーロックのドクターゼロといったキャラに充分生かされていますね(笑)


返信:無題 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2006年11月01日(水) 22時56分56秒

  うさねこさんに改めてこの話題を振られると非常に恥かしい思いですね。
  子どもの頃から好きだったもので、僕は模型もよく作っていました(います)よ。
  第二次大戦をモチーフにしたものは多いですよね。
  ドイツ軍がモデルと思われるのは、そのデザイン秀逸さにあるのかと思います。
  また、ガンダムの場合は単純に善悪に割り切れないので、
  ドイツがモチーフといっても単なる悪のイメージというわけではないのでしょうね。
  ガンダムにおけるジオン軍はドイツ的であり、かつ日本的
  (持たざる者が戦いを挑むという点において)という、
  両者の悪いとこ取りのような形にもなっていて
  ある意味末期症状を現しているようにも思えます。
  一方の連邦はアメリカ的というか、
  大量に性能はそこそこのシャーマンを投入するという
  物量作戦を実施するあたりは似ていますね。
  …それにしても、ドイツの思考方法は合理的というか、
  矛盾しているというか、強烈な個を発揮していますね。
  


無題 投稿者:うさねこ
  [書込:返信|新規] 2006年10月31日(火) 20時08分21秒

   丈庵さんはガンダムかなりお好きなんですね。私はガンプラ趣味は全然なかったですけれど、ガンダムの世界観は非常に面白いと思います。架空世界の世界観というのはなかなか難しくて、現実と全く切断しているようなものでは空想的だし、しかし現実に近すぎてはわざとらしくなってしまいますね。ガンダムの世界はその距離は実に巧みで面白い、真に迫る何かが激しくあると思います。作者のメンバーも歴史に造詣深く、たとえば原画担当の安彦良和さんなんか、本当に歴史勉強していますね。だけどいつも思うのですけれど、ジオン公国も宇宙戦艦ヤマトのガミラス帝国も、あきらかに「ドイツ」をイメージしていますよね。スタイリッシュな「悪」といえばドイツのイメージが多いですよね。なぜなんでしょうね。ドイツという国はある意味で非常に傲慢な国で、二次大戦の件について、「ナチスという組織を選んだこと」についてのみ責任はとるけどナチスドイツの行為はドイツ国家とは関係ないという論法で、ナチスはものすごいタブーなのですね。ナチスのことをドラマにすることさえ難しいそうなのですが、もしガンダムやヤマトがドイツで放映されたらどうなるんだろう、って思います。新たな日本叩きの原因になるかも知れません(笑)しかしドイツ人の論法の方が傲慢なんですよね。そういう傲慢さがまた「悪」的なのかな(笑確かまだドイツでは日本のアニメは本格的にはヒットはしていないはずだと思いますけどね。
  


返信:無題 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2006年10月22日(日) 21時15分52秒

  僕がパソコンの授業で何がつまらないかと言うと、目的がサッパリ分からないからなのですね。パソコンを使えるようになる、というこの言葉ですら、ソフトについてか、ハードについてか、アプリケーションどまりなのか、様々な意味合いを持つかと思います。だいたいはアプリケーションしか使えなさそうな先生が偉そうなことをのたまっていてやることはアプリケーションの初歩の初歩という時点で、退屈さとガッカリ感に襲われるのです。ですから、今、情報科を指導してもらえる子供たちは行く分幸せだなと思いますよ。


無題 投稿者:うさねこ
  [書込:返信|新規] 2006年10月21日(土) 17時15分15秒

    「退屈なPC授業」読ませていただきました。私はパソコン授業のつまらなさ、というのは、その授業の究極の目的の面白さを教えないからだ、と思います。私はパソコンの凄さ、というのは、情報量と思考スピードもさることながら、IT進化を通じてのコミュニケーションだと思うのですが、そのことへの「驚き=面白さ」をまず語らないと、PCの授業なんて面白くもなんともないと思います。ある数学者がいいこと言うな、と思ったのは、コンピューター授業というのは、100年前の人間が今の世界に突然もし来たとして、その人間がもってしまうような「驚き」を教えることが大切だ、と言っていました。100年前の人間が一番驚くのは、おそらくコミュニケーションの問題だと思います。変な話ですが、PCをおぼえれば、今までと違う形ですばやく彼女にもてるかもしれない(笑)そんなことだっていいのですね。コミュニケーションは人間にとって永遠に本質的な関心で、それを理系的テクノロジー(電話、電波、コンピューター)で行うか、文系的テクノロジーで行うかだけの差でしかない、と思います。テクノロジーはそのことの面白さを教えないのでしたら、もうこんな退屈な授業はないですね。もちろん、わざとらしい面白さばかりを教えるというのもまた困った授業ですけれどね(笑)


返信:無題 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2006年10月15日(日) 21時37分03秒

  うさねこさん、たびたびありがとうございます!
  逆境といいますか、状況をいかに活用するかと言う点においては、今も昔も変わらないということなのですね。仮にも学問の道にあるものが、自分はこれだけしか指導しない、これにしか興味がないといっては、視野を狭めることになるわけですから、知的欲求や興味関心の範囲を広く持つことはよいことと思いますよ。もっとも、古代史が専門の大学教授が、古代史以外の日本史の分野は(専門以外)聞かないように、という笑っちゃう先生もいました。そこから得られる普遍性を活かして古代史から見た考え方を伝える義務はない、ということですから、いったい歴史から何を学ぼうというのか、僕はそういうスタンスが嫌いだったから、今の学問の世界から離れたというのもありましたね。


無題 投稿者:うさねこ
  [書込:返信|新規] 2006年10月15日(日) 12時24分31秒

   「指導教科」読ませていただきました。私も塾や家庭教師のアルバイトしていたことがあるので、おっしゃること、非常によくわかります。思い出すのは、ヨーロッパの哲学者たちですね。18世紀のヨーロッパの大学教師稼業は実は今より厳しく、私講師といって、常勤講師でも給料はゼロで、聴講生の入金で賄われていたそうです。生活なんてできませんから、家庭教師をやる。ヘーゲルは37歳、カントは46歳まで正教授になれず、家庭教師や図書館の契約事務員のアルバイトをしていました。両者とも裕福な家とはとてもいえず、働かなければとても食えませんでした。はっきりいってフリーターですね。ところが大人物というのは逆境をプラスにしてしまうんですね。ヘーゲルもカントも、何でも教える(=何でも勉強しなければならない)家庭教師の経験を、見事に後年の哲学の完成に生かしています。多くの専門家は、彼らが昇進に恵まれて、早くに教授になったら、頭が専門的に狭くなってしまい後年の大著は完成しなかったろう、といっています。大思想家を生み出した背景には、今の日本より厳しい大学昇進の事情に加えて、何でも教えなければならないアルバイトの事情が関係していたんですね。
  


返信:無題 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2006年10月02日(月) 23時30分59秒

  知っている知識を教える「だけ」は、そもそも指導ではないですからね。
  指導者の自己満足に過ぎないです。
  自分が楽しかったことは他人も楽しい、とは限りませんから、
  その辺の勘違いはしない方が良いと思います。
  いずれにせよ極端なのは良くないので、
  スキルと熱意の両方のバランスをとれるだけの客観的な自分も
  いないといけないかとは思います。


無題 投稿者:うさねこ
  [書込:返信|新規] 2006年10月01日(日) 16時03分27秒

   「講師適正」の文章を読ませていただき、いろいろと考えました。私の経験からいっても、確かにその分野の知識を教える楽しさ、しかない先生は、妙に暑苦しい理想主義みたいなのを感じて、好きになれなかったです。「楽しもう」ということの押し付けみたいな感じですね。反面、多少厳しい採点をする先生でも、教えてもらうと不思議に頭に入る先生というのがいたものです。それはおっしゃるようなスキルに長けていたのでしょうね。そしてそういう先生は、そういうスキルに、実は「楽しさ」へのある種の「すっきりとしたあきらめ」みたいなものもうまく伝わる技術もあったと思うのですよ。たとえば英語に関しても、「英語はみんなが考えるほど簡単で楽しいものではない」という地点から地味に出発し、それでいて教えてもらううちに、なんとなく面白さの味わいが出てくる、というような感じの教え方の先生ですね。私は「楽しいよ」なんていいながら平然と受験英語を教える先生を詐欺師と思っていましたから、そういう、厳しく地味だけれど、きちんと全体像を教える技術をもった先生が大好きでした。そういう先生がたまに笑ったりすると、なんだかとても嬉しい気持ちになったりするんですね(笑)


返信:無題 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2006年09月23日(土) 23時16分49秒

  お偉い学者さんでも本を全く読まずに
  その内容を語ったりしているわけですから、
  そうでない人ならなおさらという所でしょうか。
  論語もそうですが、そういった勘違いに気づき、
  新たなる地平が開けてくるように仕向けていけたらいいな、
  と思います。


無題 投稿者:うさねこ
  [書込:返信|新規] 2006年09月21日(木) 00時47分44秒

   再びうさねこです。「理想論」を読ませていただいて、深く感じるところがありました。超現実論という言葉、すばらしいですね。「論語」をはじめ、孔子たち儒家思想をそういうふうにとらえている方、非常に多いですね。最近、私の知人(後輩)でも、東大の政治学の博士課程生が、おっしゃるような論語の俗流理解を滔々と語るのを聞いて、私はあきれてしまいました。孔子という人の一生を少しでも追えば、「論語」での言葉が、ただならぬ書物であることはすぐにわかります。彼は私達がノンキに言うような聖人君子ではありません。一生のほとんどを政治的野心にかけてそれを果たせず、何度も生命の危機さえ味わった、ある種の挫折的野心家です。その野心家孔子が、政治と人間の本質を見抜きつつ、「かくあるべき」を説いた言葉集の一つが「論語」であるわけですが、「かくあるべき」ということを説くことが、当時の血みどろの弱肉強食の春秋戦国時代でどれほど危険きわまりないことであったか、そしてそれを説くことが、かれの野心と相反し彼の仕官をいかに難しくするかを、孔子が知らなかったわけではありません。しかし彼はその難しい道を選んだのですね。そこにある言葉は、もう現実とか理想という言葉で言いあらわせるものではないですね。現実を知り尽くした孔子が、現実は当たり前にこうあるべきなのだ、という理想を、自分の出世を危うくしてまで懸命に説いた言葉の書なのです。「当たり前の理想」の書はこの激しさの中で「普遍的な理想」の書に飛躍する権利を持ちうるといっていいでしょう。そこにはおっしゃるように、「超現実論」者としか言いようのない、現実と理想の激しい相克の中で生きる野心家孔子の姿があるのですね。それを踏まえれば、「論語」はいつの世も、無限に面白い書物たりうると私は思います。


返信:こんばんは 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2006年09月17日(日) 10時51分55秒

  うさねこさん、ありがとうございます。
  松代は是非皆さんに足を運んでいただきたい場所だと本当に思います。
  徹底抗戦の意味するもの、「抗う」ということから考えれば、勝つという見込みよりも、日本人としての心、を重要視していたように思えます。間違った滅びの美学の貫徹のために。
  江戸幕末から明治初期に芽生えた、国際社会の中における日本人としての精神性が、誤った方向に見事に昇華されたという気がしてなりません。
  日本人全員が「死後の世界」に殉じる必要などないのですから、戦争における思考の凝り固まり、統一性、これらには背筋が寒くなります。


こんばんは 投稿者:うさねこ
  [書込:返信|新規] 2006年09月16日(土) 19時38分54秒

   いつも楽しく読ませていただいています。少し前の更新についてなのですが、松代大本営に関してのこと、とても考えさせられました。私は戦争の「悪」というのは、日本軍の不法行為にせよ、連合軍の非戦闘地域への無差別攻撃にせよ、いろいろあると思いますが、少し観方を変えてみると、「永久戦争」の悪、ということが何よりあると思うのですね。二次大戦の戦局を観ると、マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦の惨敗によって敗戦は決定的になったのですから、この時点で、講和を考える政治的責任が首脳部にあったはずです。この後から、明らかに特攻作戦その他、日本軍の作戦は気違いじみてきます。もちろん細かくみれば、小磯内閣の国民党単独講和工作のようなものもあったわけですが、基本的には戦争継続を転換しない。もちろん、陸軍の徹底的抗戦の過激派は恐ろしいものがあり、そんなことを主張できることはほとんど不可能だったわけですが、いったい、その抗戦派は松代にまで天皇を移動して、「勝てる」と考えていたのかどうか。そして、その後の日本がどうなると考えていたのでしょうか。もう彼らは「死後の世界」を考えるような気持ちで、本土決戦を考えていたのではないでしょうか。つまり日本史そのものを破壊するということです。そういう権限があるという傲慢さは、どんな不法行為の「悪」よりもおそろしいことといわなければならないでしょう。実際は救国の英雄(と私は思う)鈴木貫太郎首相の登場、彼と阿南惟幾陸相、東郷茂徳外相、米内光政海相た良識派の連携プレーで本土決戦は見事に回避されたのですが、彼らが登場しなかったら、この日本に本当に「死後の世界」が登場してしまったでしょう。戦争は勝たなければならない、そして見込みがなかったら終わらせなければならない、そういう当たり前のことを忘れさせた最悪の「悪」を思い起こすためにも、松代に行かれることを私も皆さんにおすすめします。


内容説明 投稿者:管理人
  [書込:返信|新規] 2005年11月15日(火) 18時45分43秒

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