| 投稿元記事: 無題 投稿者:うさねこ 2006年09月21日(木) 00時47分44秒 再びうさねこです。「理想論」を読ませていただいて、深く感じるところがありました。超現実論という言葉、すばらしいですね。「論語」をはじめ、孔子たち儒家思想をそういうふうにとらえている方、非常に多いですね。最近、私の知人(後輩)でも、東大の政治学の博士課程生が、おっしゃるような論語の俗流理解を滔々と語るのを聞いて、私はあきれてしまいました。孔子という人の一生を少しでも追えば、「論語」での言葉が、ただならぬ書物であることはすぐにわかります。彼は私達がノンキに言うような聖人君子ではありません。一生のほとんどを政治的野心にかけてそれを果たせず、何度も生命の危機さえ味わった、ある種の挫折的野心家です。その野心家孔子が、政治と人間の本質を見抜きつつ、「かくあるべき」を説いた言葉集の一つが「論語」であるわけですが、「かくあるべき」ということを説くことが、当時の血みどろの弱肉強食の春秋戦国時代でどれほど危険きわまりないことであったか、そしてそれを説くことが、かれの野心と相反し彼の仕官をいかに難しくするかを、孔子が知らなかったわけではありません。しかし彼はその難しい道を選んだのですね。そこにある言葉は、もう現実とか理想という言葉で言いあらわせるものではないですね。現実を知り尽くした孔子が、現実は当たり前にこうあるべきなのだ、という理想を、自分の出世を危うくしてまで懸命に説いた言葉の書なのです。「当たり前の理想」の書はこの激しさの中で「普遍的な理想」の書に飛躍する権利を持ちうるといっていいでしょう。そこにはおっしゃるように、「超現実論」者としか言いようのない、現実と理想の激しい相克の中で生きる野心家孔子の姿があるのですね。それを踏まえれば、「論語」はいつの世も、無限に面白い書物たりうると私は思います。 |