| 投稿元記事: 無題 投稿者:うさねこ 2007年03月19日(月) 15時34分18秒 「石田三成」読ませていただきました。 石田三成はエリート官僚的な冷徹さをもつ反面、丈庵さんがおっしゃるような、当時としては特異なくらいの正義感を有していた人物ですね。私達は「正義感」という言葉に親しいですが、それ自体が独立した社会的正義感というのは、実は近代以降確立したもので、前近代社会では、「家」の個別的エゴイズムのみが支配していたに過ぎません。そういう意味では石田三成はすごい人物という以上に、不思議な人物とさえいえるでしょう。彼がもう少し柔軟な人間性を有して、小早川・毛利・島津といった造反・中立・傍観の諸氏をつなぎとめていれば、勝利とはいわないまでも引き分けに持ち込めた可能性は高いでしょう。しかし、19万石しかない三成が、250万石以上有している家康に互角に渡り合えたこと自体が、三成の戦争設計の秀逸さを示しています。あるいは朝鮮出兵の徹退にしても、これは第二次世界大戦の徹退よりも大変な事業で、秀吉の死を内密にしながらしかも他国の援助なしでおこなわなければならなかったわけですが、これも三成の隠れた、大変な業績だといえましょう。千里眼の如き家康も、三成のすごさはよくわかっていますから、江戸時代において、三成型の能臣をたくさん生み出す土壌をつくりだします。そういう意味では、三成の存在というのは、後世に継続されていくという面もあるのでしょう。 しかし、私は三成の関ヶ原での正義感は、なお決定的な欠落点があるといわざるを得ません。豊臣家を守る正義というのは、約束を違えた家康や伊達政宗達の不正義によって成立し、それが天下の正義ということですが、秀吉の天下だって、秀吉が信長死去以降、織田家を巧妙に退けて成立させたものに過ぎません。信長の息子の信孝を殺害、信雄を調略、孫の秀信(三法師)と弟の長益(有楽斎)を一配下大名にしたのは、他ならぬ秀吉です。まだしも家康の方が、信雄への面倒見などから、表面的とはいえ織田家を大切にしようとした気配があります。石田三成の正義感が白けたものだったのは、時代が前近代だったという以上に、長期的にみれば、豊臣の正義も、たいしたものだはない、という認識が、諸大名にあったから、といわなければならないと思います。 |