| 投稿元記事: 無題 投稿者:Z.K 2007年04月26日(木) 19時53分48秒 僕が、調査・研究の中心としている時代は、701年(大宝律令制定)から723年(三世一身法)までです。(この理由については、次回以降に投稿したいと思います。)この時代において、「富裕層の農民」に近い存在として郡司層が上げられると思います。(少し違うような気もします。疑問に感じた方は御指摘下さい。)郡司の経済史上の階層については、経済史の文献では「在地首長層」という用語がよく用いられていると思います。例として、石上英一氏は日本の古代社会の生産関係を総体的奴隷制・農奴制とは異なる第三の形式である首長制の生産関係である(註1 石上英一『律令国家と社会構造』名著刊行会 1996年 P165〜168要約 )とした上で、律令制下の郡司の役割について次のように述べています。「 集落共同体の結合体としての地域社会は、律令制下の地方行政組織としての郡の規模の地理空間に相当する。集落共同体首長は、族的・地縁的結合により郡規模の地域社会における支配者層(在地首長層)を形成している。律令制下では、これらの在地首長層は、国家機構の地方行政組織としての郡司として編成され、郡司が政務を行う官署としての郡家に結集して郡規模の地域社会を政治的に支配する。この郡司による地方行政の支配機構こそは、天皇―班田農民(公民)と、首長―民戸の二つの支配隷属関係を統合するものであった。」註2 石上英一『律令国家と社会構造』名著刊行会 1996年 P169引用 このことから、律令国家は班田収受制を大和政権時代からの農村部支配層と協力することで実施していたのだと思います。そうしなければ(全農民を直接支配する社会制度を目指せば)、強力な中央集権国家が成立するどころか大混乱となっていただろうと思います。しかし、「律令国家―班田農民」というだけではない複雑な社会構造は古代社会・経済を考える上で面白さではあるものの、難しさでもあると思います。(例えば、在地首長層は班田収受制に必要な存在ではあったが、律令制の徹底化を妨げた面もあるのではないか? 在地首長層と班田農民の疲弊とはどう関連付けるべきか? 学校では、律令体制に関して「公地公民制」という言葉がよく使われたがこの用語は適切なのか? などです。) 僕が当初、古代国家について調べ始めた時は、強大な権力を持った律令国家(中央政府)と酷使される班田農民という社会像を描いていたのですが、調査を進めるうちに実際の律令体制下の社会・経済構造はもっと複雑であったと考えるようになりました。(僕は、公地公民制という言葉にこだわり過ぎていた気がします。) |