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慶雲の改革について@ 投稿者:Z.K
 2007年08月19日(日) 19時19分28秒 / ID : 5YRr9O56
  702年の大宝律令施行後、最初の経済史上の大きな出来事として706年(慶雲3年)の改革(慶雲の改革)があると思います。僕がこの改革に注目した理由はこの時期の改革には律令制自体の問題点がよく表れていると考えるからです。(八世紀中盤になると政争・度重なる遷都・大仏建立といった律令制とは直接関係ない原因による社会・経済上の問題が多くなると思います。)慶雲の改革には、位封の増額・支給対象の四位以上への拡大など貴族・官人層向けの改革もありますが、民衆の生活に関係が深いものとして@京・畿内での調の個人別徴収から戸別徴収への変更A庸の半減B義倉徴収の緩和があると思います。位封の増加は間接的に民衆の負担が重くなる気がしますが、基本的に慶雲の改革は人民の負担を軽減するものであったと考えています。@の理由について『続日本紀』は、「外邦の民と異にして、内国の口を優くす。」(註1(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P99引用)と京・畿内地域の人民を優遇するため制度変更したと述べています。これは、民衆の調の負担の重さを示しているとも考えられますが、適切な政策であったかは疑問に感じます。京・畿内での調は他地域の半分であり、平城京にも近いため運脚の負担も軽いはずです。僕は、京・畿内での調の半減・庸の免除だけでも不公平だと思いますが、その上に制度改正を行い負担軽減を図るのは、他地域とのバランスを欠くのではないかと思います。また、調の調達の関係上、律令政府は個人別徴収よりも戸別徴収の方が現実に適していると考えた可能性はあると思います。しかし、調の戸別徴収は725年以前に廃止されており(註2 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P374参照)、最長でも20年しか続かなかったのですから有効な政策ではなかったと思います。Aの庸の半減は、ほぼ継続されたこと(717年以降は、正丁一人につき布1丈4尺)から適切な政策であったと思います。しかし一方で、『続日本紀』は「その大宰の所部は、皆、庸を収めむことを免す。」(註3 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P101引用)と大宰府管内諸国での庸を全て免除すると述べています。僕は、庸は民衆の重い負担となっていたと考えていますが、この政策は税負担の公平性という観点からは疑問に思います。防人は東国から多く調達されており大宰府の軍事力を維持するための負担は東国に重く掛かっていたと思うからです。また、大宰府管内諸国の庸の免除は718年に廃止されており(註4 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P374参照)、このことからも有効な政策だったかどうか疑問に思います。Bの義倉について、『続日本紀』は「是れ義倉の物は、窮民に給ひ養はむとして、預め儲け備へむとなり。今貧しき戸の物を取りて、還りて乏しき家の人に給ふは、理に安からず。今より以後、中々以上の戸の粟を取りて義倉とし、必ず窮乏に給ひて、他に用ゐること得ざれ。」(註5 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P101引用)とー困窮者のための義倉を貧民から徴収して、貧しい者に支給するのは、不合理である。今後は、中々以上の戸から徴収して必ず窮乏者のために使用し、目的外に使用しないようにせよ―という意のことを述べています。これは、律令の理念(儒学思想―異なる見解もありますが、僕は1月13日の投稿記事で書いたように律令法典を構成する基本思想は儒学であったと考えています。)に合致した改革であったと思います。義倉の徴収方法はこの後、数回変わっていますが、僕は徴収した義倉・租を有効に活用できたのかどうかに最も関心を持っています。
  慶雲の改革についてAでは、慶雲の改革前の社会・経済情勢について検討したいと思います。


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