| 投稿元記事: 運脚についてA 投稿者:Z.K 2008年05月25日(日) 17時46分39秒 / ID : 0GPlHny2 (色々と忙しかったことや、内容の確認に手間取ったことから投稿時期が大幅に遅れました。まだ間違っている所があるかもしれませんので気付いた方は御指摘下さい。) 720年に6項からなる民衆の生活困窮への対策が出されていますが、その中の一つに運脚の改善策があります。 史料@(『続日本紀』720年3月条) 「但し、百姓、物を運びて京に入り、事了らば即ち早く還らしめよ。A(国に帰る程の粮無きが為に、路に在りて極めて艱辛に難む。)B(望み請はくは、在京に官物を貯へ備へ、公事に因りて物を送り還る毎に、程に准りて粮を給はむことを。)庶はくは、飢弊を免れて早く本土に還らむことを。」[註1(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀二 新日本古典文学大系13』岩波書店 1990年 P71引用 英字・( )引用者] A( )の箇所は、京に物資を運搬した農民が帰りの食料が無く、路上で苦しんでいると述べています。その対策として、B( )の箇所で、帰路に応じて食料を支給するように指示しています。僕は、当初この対策は調・庸の運脚を含む全ての運脚を対象としていると考えました。しかし、『続日本紀二 新日本古典文学大系13』に「京に調庸を除く公事の物を運ぶ百姓に帰国の粮を支給することを述べる。」[註2 前掲『続日本紀二 新日本古典文学大系13』 P69引用]とある通り調・庸の運脚は対象から除外されていました。その原因は現時点では明確に解明できていません。ただ、下記の724年の改善策でも調・庸の運脚は対策から除外されており、律令国家は調庸運脚の食料の農民負担にこだわっているように思えます。その原因として、@運脚は調・庸を納める者が負担するという律令制の規程にこだわった法律的な理由、A調庸運脚の食料を国家が支給すれば大きな負担となるという経済上の理由、B @・Aの複合などが考えられますが、もし、@が主因ならば、律令国家は現実を直視しておらず、丈庵さんの御返信にありましたように人民の困窮改善への真剣さを疑う事態だと思います。また、Aが主因だったとしても、運脚の食料を国家が負担できなかったのか?と考えた際に、今年の1月23日投稿の「浮浪・逃亡について@」でも書きましたように租の徴収により蓄積された食料が有効に活用されなかったのではないかという疑問があります。これについては、さらに調査を進めた上で投稿したいと思います。 史料A(『続日本紀』724年3月条) 「甲申、七道の諸国をして、国の大小に依りて税稲四万已上廿万束已下を割き取り、毎年に出挙して、その息利を取りて、朝集使の在京と、非時の差使と、調庸を運ぶことを除く外の京に向ふ担夫らとの粮料に充てしむ。」[註3 前掲『続日本紀二 新日本古典文学大系13』P149引用] ここでは、諸国に対して出挙により調庸以外の運脚などに対して上京のための食料を用意するよう指示しています。しかし、調庸運脚については無支給でした。僕は、これには、古代国家の社会政策の限界が表れているように思います。 また、運脚の疲弊について、食料の農民負担以外の問題点として@律令制の未整備・未成熟A駅家・駅馬を使用させないなどの制度上の欠点B社会的分業の未発達、が挙げられると思います。@はこれまでに書いたの食料負担に関する一連の改善策もその一つなのですが、他にも大宝律令施行後に改善された点があります。例えば、吉田孝氏は地域的な運脚の改善策として、調・庸を運搬しやすい物に変更した事例(714年、上総国の調が細布に、728年、美作国の庸米を綿・鉄へ変更)及び、陸路から水路に変更した事例(756年、山陽・南海道諸国からの舂米が海路へ変更)を指摘しています。[註4 吉田孝「奈良時代の社会と経済」(編者)井上光貞・永原慶二・児玉幸多・大久保利謙『日本歴史体系普及版2 律令国家の展開』山川出版社 1995年 P239〜P240参照]僕は、8世紀前半の律令国家は、法的には大宝律令で完成していたものの、現実の社会には社会経済構造と制度の不整合も多く、これも人民の疲弊の一因になったと思います。 Aについては、仮に運脚が駅家・駅馬を利用できていれば(さらには、物資輸送用の牛車・馬車が用意されていれば)、もっと運脚の負担は軽くなっていたと思います。また、都までの距離が近く運脚の負担が低いはずの京・畿内地域で税が軽い(京・畿内は、調は半減・庸は免除)のは税負担の公平上疑問に思います。 Bについてですが、律令体制下で、物資輸送に運脚が苦労した後、運送業者として問丸・馬借・車借が発達したことは経済史的には興味深いのですが、当時の律令国家が輸送の専門集団を大規模に組織することは困難であったと思います。 今後調査したいこととして、律令制は中国で生まれた制度ですが、広大な中国でも調・庸などの物税を都に運搬させていたのかどうか?という疑問が生じました。 |