| 投稿元記事: 衛士についてA 投稿者:Z.K 2008年08月10日(日) 16時19分21秒 / ID : wPDBzmnk 史料A(『続日本紀』722年2月条) 「A(甲午、詔して曰はく、「去りぬる養老五年三月廿七日、兵部卿従四位上阿倍朝臣首名ら奏して言さく、「諸府の衛士、往往に偶語して、逃亡すること禁め難し。)B(然る所以は、壮年にして役に赴き、白首にして郷に帰りぬ。)艱苦弥深くして、遂に疏網に陥る。C(望まくは、三周して相替りて、懐土の心を慰めしめむことを」とまうす。)(中略)D(自後、諸の衛士・仕丁、便ち役年の数を減して、人子の懐を慰めむ。其れ三載を限りて一番と為し、式に依りて与に替へよ。留滞せしむること莫れ」とのたまふ。)」[註3(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀二 新日本古典文学大系13』岩波書店 1990年 P109・111引用 英字・( )引用者] A( )で諸府の衛士の逃亡を防止できないと述べた上で、B( )では原因として、任務が終って故郷に帰れるのは老人になった頃であると述べています。その対策として、C( )で衛士・仕丁は三年交代とすることを進言しています。大宝律令では衛士・仕丁の勤務年数は定められていなかったようですので(註4 前掲『続日本紀二 新日本古典文学大系13』P110参照)、この問題は前回に書いた「律令制の未整備・未成熟による人民の疲弊」の一つと捉えることもできると思います。ただし、それよりも制度と実態の違いによる民衆の疲弊という面が大きいと思います。史料@と史料Aを比較すれば、史料@の指示は史料Aの頃には無視されていたということになると思います。これは、大宝律令に衛士の任期が定められていなかったとすれば、衛士の任期を一年と軍防令で定めた養老律令の施行は757年ですから、令には反していないことになります。しかし、『続日本紀』に記載されている詔が守られなかったことは律令制が必ずしも制度通りの運用がされていなかったことを示唆していると思います。また、仕丁はこれにより負担が軽減される(少なくとも制度上は)と思いますが、衛士の任期は史料@の詔で一年に短縮されたはずですから、史料を比較すると負担増となっており、必ずしも順次負担が軽減されたわけではありません。僕は、衛士を一年交代とすることは困難で、史料@の詔は守られなかったため、722年に三年交代として再度勤務年数を短縮する指示が出されたと考えています。 高校の教科書や資料集には律令制の税制が表になって掲載されていますが、実際の律令制の税制は複雑に変遷しています。この税制の変化を追うことは、律令体制下の民衆がどのような負担に苦しんだかを知る手がかりになると思います。また、令の規程と実情に乖離がなかったかも重要なポイントだと思います。上記の衛士では、711年に任期を1年とするとしたものの守られず、722年には任期を3年とするとされました。しかし、これは調査中ですが、この722年の指示も守られたかどうか疑問に感じます。 (本文が長すぎますとの表示が出たため2つに分割しました。読みにくくなって申し訳ありません。) |