| 投稿元記事: 浮浪・逃亡についてA 投稿者:Z.K 2008年10月13日(月) 18時36分58秒 / ID : tUP6umsg 歴史の研究において、史料の分析が重要なことは「無用之用」の「歴史ツール」にも記載されています。どういった史料を選ぶかや史料から何を読み取るかが課題となると思いますが、今回は先行研究の基になった史料にあたり自分の分析を深めたいと思います。 8世紀に浮浪・逃亡の増加を招いた政策として、平城京の建設があると思います。例えば、野村忠夫氏は次のように述べています。「律令体制の末端への貫徹をはかり、その中核として平城造都を強行することは、直接に動員される役民はもちろん、全人民に間接的な重い負担を背負わせることになった。律令政府が和銅二年十月、畿内および近江国の有力者に、浮浪する人民や逃亡した仕丁をかくまい、私的に駆使することを厳禁したことに、その重い負担の一端と、浮浪・逃亡という人民の抵抗の姿を垣間みることができるのである。」(註1)野村忠夫「平城京の経営」 P183引用(編者)井上光貞・永原慶二・児玉幸多・大久保利謙『日本歴史体系普及版2 律令国家の展開』山川出版社 1995年 この野村氏の見解の中で、前半部分の平城京建設が人民にとって重荷となったという点はよく言われています。これは、確実だと思いますが、僕にとっての課題はここからどう研究を深めていくかだと思います。そこで、後半部分の野村氏の指摘に該当する史料を以前から注目している律令国家の社会経済構造を重視して検討したいと思います。 史料@(『続日本紀』709年10月条) A(丙申、禁制すらく、「畿内と近江国との百姓、法律を畏れず、浮浪と逃亡せる仕丁等とを容れ隠して、私に駈り使へり。是に由りて、多く彼に在りて、本郷・本主に還らず。)B(独、百姓、法令を違ひ慢るのみに非ず、亦是れ国司、懲粛を加へねばなり。公私を害蠹すること、斯の弊より過ぎたるは莫し。) [註2(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P155引用 英字・( )引用者] まず、A( )の箇所に注目しますと、史料には「人民が平城京の造営に疲弊したため、浮浪・逃亡が増加した。」というような直接的な表現はありませんが、時期を考えれば野村氏が述べている通りだと思います。そして、この史料は農民や仕丁が浮浪・逃亡することを防ごうとしたというよりは浮浪人・逃亡人の私的使役を防止しようとしていると思います。その禁止の対象ですが、野村氏は、上記史料中の「畿内と近江国との百姓」を「畿内近江国の有力者」と解しています(上記の引用を参照)。以前に数回、律令体制下の有力者は国家と共に民衆を二重に支配し、人民の疲弊の一因になったと書きました。しかし、この史料では浮浪人・逃亡人に居場所を与えており、最も弱い立場の人々を支えているとも考えられます。しかしながら、全体的に見れば、中間支配層的な存在の強大化は、これまで書いてきたように私出挙や共有地の占有などにより班田農民を圧迫することになると思います。そう考えれば、平城京の建設で律令体制の末端への貫徹を目指したはずが(上記の野村氏の見解を参照)、負担の増大→浮浪・逃亡の増加と有力者の強大化→律令体制の動揺・不安定化と思惑外れの結果となったと思います。また、浮浪・逃亡した人民も完全に自由となったわけではなく私的に使役されているということも重要だと思います。このことからは、国家による支配は有力者による支配よりもさらに重負担であったことが示唆されると思います。ただし、以前書きましたように、班田農民の場合は国家と地域の有力者の二重に搾取されていた場合があり、仕丁の場合は709年の時点では任期が無制限であることに注意する必要があると思います。 僕は、平城京の建設は、政治的・文化的な成果はあったと思いますが、社会経済上は不安定性や矛盾を抱えていた構造(例として、史料@のB( )の、浮浪人・逃亡人を使役する側だけでなく、国司が私的使役に懲罰を加えない事にも問題があるとしている点は、国司の怠慢というよりも地域の有力者の影響力が強かったために、取締りを避ける傾向にあったと考えます。これは、公地公民制の不徹底を表していると思います。)を悪化させマイナスとなったと思います。 |