| 投稿元記事: 浮浪・逃亡についてB 投稿者:Z.K 2009年01月24日(土) 20時10分02秒 / ID : J3rE7hi2 前回は、710年頃の民衆の疲弊の要因として、平城京の造営と社会経済構造に注目しましたが、今回は別の要因として蝦夷との戦争に着目したいと思います。対蝦夷戦争のための財政政策について、栄原永遠男氏は次のように述べています。「蝦夷との大規模な戦争の最初は、七〇九年に起こった。二月に陸奥鎮東将軍と征越後蝦夷将軍が任命され、東日本諸国から兵士・兵器・船を徴発している。このことは、財政的には、対蝦夷戦争経費を東日本諸国の地方財政に分担させたことを意味する。以来、この方式は一貫してとられつづける。」(註1栄原永遠男「貢納と財政」(執筆者)吉田孝 八木充 佐藤信 栄原永遠男 熊田亮介 大津透 青木和夫 杉本一樹 平川南 古瀬奈津子『岩波講座 日本通史 第4巻 古代3』岩波書店 1994年 P158引用)律令国家と蝦夷との戦闘はこの後も断続的に長く続きますが、僕は、これは東日本の民衆が律令の規定に加え、戦争のための負担を背負い続けたことを意味すると考えます。東国の人民は大宰府への防人の提供でも負担を持っていましたので、東西の軍事負担を担うこととなりその負担は重かったと思います。律令体制下の民衆の生活について考えると、律令の規定による負担に加え、何らかの臨時的な負担をほぼ恒常的に背負わされていたことに注意する必要があると思います。 戦争による民衆の疲弊はよく言われていますが、これをどう具体的に示すかが課題となると思います。僕は、戦争による最大の被害は人命の損失だと考えますが、経済学的には労働力と物資の収奪が挙げられると思います。この視点で栄原氏の上記見解の頃の『続日本紀』を検討したいと思います。 史料@(『続日本紀』709年3月条) 「壬戌、陸奥・越後の二国の蝦夷、野心ありて馴れ難く、屢良民を害す。(是に、使を遣して遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中等の国を徴り発さしむ。)」[註2(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P147・P149引用 ( )引用者] 史料A(『続日本紀』709年7月条) 「秋七月乙卯の朔、従五位上上毛野朝臣安麻呂を陸奥守とす。諸国をして兵器を出羽柵に運び送らしむ。蝦狄を征たむが為なり。○丁卯、(越前・越中・越後・佐渡の四国の船一百艘を征狄所に送らしむ。)」[註3前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』 P151・P153引用 ( )引用者] 史料B(『続日本紀』709年9月条) 「己卯、遠江・駿河・甲斐・常陸・信濃・上野・陸奥・越前・越中・越後等の国の士の、征役経ること五十日已上の者に、復一年賜ふ。」[註4前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』 P153引用] 史料@の( )の箇所からは、7カ国以上から対蝦夷戦の兵士が徴兵されたことがわかると思います。さらに、史料Bから常陸・陸奥・越後からも兵士が動員されたことが確認できますので、少なくとも10カ国以上から出征していると思います。僕は、軍団兵士は通常百日ごとに十日間任務に就くため、非番の時は農業が可能だと思いますが戦時には長期間離脱するため民衆の負担は大きかったと考えます。五〇日以上出征した兵士には賦役令による徭役免除に加えて調が免除されたようですが〔史料B参照・(註5「復一年賜ふ」を調の免除と推測する解釈は、前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P153に従いました。)〕農村に残った家族の負担や死傷者の存在を考えればやはり戦乱による民衆への打撃は大きかったと思います。また、史料Aは対蝦夷戦争による民衆の経済的負担を示していると思います。この史料は、諸国から船・兵器を徴収したことを述べていますが、僕は( )の箇所の船百隻の徴収は特に人民の重い負担となったと考えます。 僕が注目しているのは、805年の徳政相論で指摘された「軍事」と「造作」による人民の疲弊と同様のことが約100年前に起きていたということです。これは、歴史は繰り返す、あるいは歴史から学ばなかったとも言えると思います。しかし、別の視点で考えると、僕は、どうも律令国家は意欲的に政策に取り組むと、大規模な建設作業や軍事動員で民衆を疲弊させる傾向があるように思います。平城京建設と長岡京・平安京造営の間の8世紀中期にも聖武天皇期の度重なる遷都、国分寺・国分尼寺建立の詔、盧舎那大仏造立の詔、淳仁天皇期の新羅侵攻計画(実施されず)など民衆の負担となる政策が行われています。僕は、律令国家の政策には賑給など社会的弱者に配慮する社会事業的なものが存在したものの、結局は人民の生活よりも国家事業を優先してしまったのではないかと思います。 |