| 投稿元記事: 慶雲の改革についてA 投稿者:Z.K 2007年10月08日(月) 17時46分28秒 / ID : 9jVjNSNI 丈庵さんの御返信にもありましたように、慶雲の改革を単純に「庶民のため」ということはできないと思います。その理由の一つとして、慶雲の改革後すぐの律令国家の政治があります。律令国家は、708年に平城京遷都を決定し、709年には蝦夷との大きな戦いが発生しています。これは、805年の徳政相論で人民を苦しめていると指摘された「軍事」「造作」であり民衆のための政治と言えるものではないと思います。(ただし、これは元明天皇期の政府を批判するよりは、同じようなことを繰り返した桓武天皇期の政策に問題があるという見方もできると思います。)僕は、706年に人民の負担軽減が行われた要因に慶雲の改革直前には全国的に災害・飢饉が発生したため、民衆の窮乏が高まり負担軽減が求められていたことがあると考えています。慶雲の改革前年の社会情勢を示す史料として、『続日本紀』には次のような記述があります。史料@(『続日本紀』705年8月条)「八月戊午、詔して曰はく、「(A)陰陽度を失ひ、炎旱旬に弥る。百姓飢荒して、或は罪網に陥る。天下に大赦して、民とともに更新むべし。死罪已下は、罪の軽重と無く、咸く赦除せ。(B)老病と鰥寡惸独との、自存すること能はぬ者には、量りて賑恤を加へよ。その八虐と、常赦の免さぬとは、赦の限に在らず。(C)また、諸国の調の半を免す」とのたまふ。」[註1(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P89引用 英字・傍線引用者] 史料A(『続日本紀』705年10月条)「冬十月壬申、詔して、使を五道に遣して、山陽・西海道を除く。高年と、老疾・鰥寡惸独とを賑恤し、并せて当年の調の半を免さしめたまふ。」(註2 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P91引用) 史料B(『続日本紀』705年最終記事)「是の年、諸国廿、飢ゑ疫しぬ。並に医・薬を加へて賑恤せしむ。」(註3 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P93引用)史料@の傍線部(A)からは、天候不順により農民が飢餓に陥っていることが分かると思います。その対応策として社会的弱者への賑給[傍線部(B)参照]や諸国の調の半減[傍線部(C)]などを命じています。すでに、705年4月には、不作のため大税出挙の利稲の免除と庸の半減が行われていました(註4 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P85参照)ので、この年の不作は深刻であったと思います。その2カ月後の史料Aでは、再度社会的弱者への賑給と調の半減が指示されています。これにより、五道各国(七道の内、山陽道・西海道以外)の調は全免となりました。(註5 史料Aのこの解釈は、前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P90参照)史料からは、具体的な飢餓の犠牲者数や農作物の減収量は不明ですが、調の全免が広範囲に行われたこと、及び史料Bの20カ国が飢餓・疫病に見舞われたとの記載から705年は日本各地が深刻な災害に襲われたと思います。さらに、翌706年にも広範囲に疫病が発生したとの記述が『続日本紀』にあります。僕は、律令国家にとって畿内での疫病発生は特に深刻な事態であったと思います。史料C(『続日本紀』706年1月条)「京畿と紀伊・因幡・参河・駿河等との国、並に疫す。医・薬を給ひて療さしむ。」(註6 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P95引用)僕は、706年の改革は大宝律令の欠点の是正と[改革を述べる詔は「准レ令〜」で始まっています。(註7 前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P98〜100参照)、飢餓・疫病が多発した当時の社会情勢により行われたと推測します。『続日本紀』(史料@〜C)を見た限りでは、律令国家は飢餓が発生すれば賑給(史料では賑恤と表記)・減税を行い、病気が流行すれば医療を提供しており古代国家の社会政策は機能していたように見えると思います。(ただし、史料からは具体的な賑給・医療の対象者数や使用された物資の量は不明です。)しかし、ある程度は評価すべきだと思いますが、僕は、地方の備蓄食糧の使用状況を調査した結果では賑給の有効性に疑問を抱いています。(租や公出挙により地方で集められた食糧の使用状況は、大学時代から注目してきたテーマです。しかし、未だに資料分析や自分の考えをまとめるのに手間取っているのですが、完了次第、報告したいと思います。 |