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遅くなりました@ 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2010年09月21日(火) 20時35分38秒 / ID : QDJ0PO52

   大変遅くなりましたが、丈庵さんの2009年9月25日の御返信における「政府と地方、農民の3者がどのように絡み合うことで実が挙がらなかったのかでしょうか。」について、解答したいと思います。
  政府と地方の思惑が一致していない例として、地方の有力者による班田収受制の悪用が挙げられると思います。吉田孝氏は、在地首長層が勢力を補強するために班田制を利用して良田を集めようとしたことを『続日本紀』延暦10年5月条より指摘しています。[註1 吉田孝「奈良時代の社会と経済」(編者)井上光貞・永原慶二・児玉幸多・大久保利謙『日本歴史大系普及版2 律令国家の展開』山川出版社 1995年 P252参照
  下記に引用するのは、その『続日本紀』延暦10年5月条の該当箇所です。
  史料1(『続日本紀』791年5月条)「A(戊子、是より先、諸の国司等、常荒不用の田を校べ収めて、以て百姓の口分に班てり。徒にその名を受けて租を輸すに堪へず。)B(また、王臣家、国郡司、及殷富の百姓等、或は下田を上田に相易へ、或は便あるを便あらぬに相換ふ。此の如きの類、処に触れて在り。)C(是に、所司に仰せ下して、却りて天平十四年・勝宝七歳等の図籍に拠りて咸く皆改め正さしむ。来年に田を班たむが為なり。)」[註2 (校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀五 新日本古典文学大系16』 岩波書店 1998年 P501引用 英字・( )引用者]
  A( )は次のように述べています。諸国の国司が劣悪な田を収公して、農民に班給している。それでは、租を納入できない。B( )は、有力者が下田を上田に、あるいは不便な土地を便利な土地に交換する行為が行われていると述べています。僕は、この史料と同じように班田収受制を悪用する行為が奈良時代の前半にも既に行われていた可能性があると考えます。それは、農民の不満・生活苦を招き浮浪・逃亡の増加に繋がった可能性もあると思います。ただし、この史料は791年のもので、C( )は792年の班田が適切に施行されるように742年や755年等の資料を用いA・B( )の行為を正すよう指示しています。このことから考えて、奈良時代前半の時点では班田収受制の支配層による悪用が蔓延していたとは思いません。
   律令国家としては、班田収受制の目的は農民に最低限の生活を確保し確実に税を取り立てることであると思います。ところが、国司や在地首長層といった地方の有力者は国家の思惑通りに律令制を運用するとは限らず、自らの利益も考慮に入れて行動していたと推測します。これが甚だしくなったため、上記の史料が出されたのであり、ある程度は律令体制の早い段階から問題が生じていたと考えます。国家は自らのために制度が理念通りに施行されているか否かに関わらず人民に負担を求め、地方の有力者は律令制を利用して勢力を強化しようとしていたのだと思います。この結果、最も犠牲となったのは農民であると考えます。


遅くなりましたA 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2010年09月19日(日) 19時16分42秒 / ID : 82xcMgWE

  また、律令国家と民衆の思惑の不一致として律令制と当時の社会構造があると思います。
  具体的には、律令国家は農民に口分田を班給すれば本貫地から移動を希望することはないと想定していたが、実際には班田農民は柔軟に移動できる制度を望んでいたということです。ただし、班田農民の浮浪・逃亡について、古代農民は移動が困難な中であえて浮浪・逃亡を行っており、それは国家と人民の対立の深刻さを示しているという見解もあります。石母田正氏は、次のように述べています。「農民が自己の土地または共同体をすてて浮浪し逃散することは、たとえそれが移住の性質をもった場合でさえ、「アジア的共同体」の農民にとっては、特別の意義をもっていた。そこでは農民が「土地の附属物として土地に緊縛されていること、すなわち本来的意味での隷属」が特徴的であり、農業以外の他の職業または都市が存在しない段階では、一片の伝来の土地を耕作しなければ人民は飢えるほかないという生産諸力と社会的分業の段階によって規定された関係が支配的だからである」。(註3 石母田正『日本古代国家論 第一部』 1973年 P56引用) これからすれば、浮浪・逃亡は餓死を覚悟しての支配体制への抵抗であり、国家と農民の対立の激しさと搾取の厳しさを示していることになります。僕は、浮浪・逃亡は人民の国家への抵抗運動として重要視するべきことであると思います。しかし、最近の研究では律令国家が農民を土地に束縛しようとしたこと自体にも無理があったとする論調が多いと思います。僕も人民を土地に束縛する律令制と当時の社会に不整合があり国家と班田農民の思惑の差異が大きかった面があると考えます。例として、西別府元日氏の見解を引用します。
  「律令制下の民衆は、戸籍・計帳への登録により本貫地へ緊縛され、その移動は極端に制限されていた。したがって民衆の自由な移動である浮浪・逃亡は、この律令制の原則に違反し、公民を軸とした民衆掌握体制そのものの崩壊を招来しかねないもので、本来ありうべからざるものであった。しかし民衆が現実に住む社会は、双系的な可塑性・流動性に富む社会であり、民衆の移動はいわば常態ともいえるものであった。
   したがって、太政官政府は国家理念と社会的実態との矛盾のなかで、民衆の移動を制限し、民衆掌握を実態化するための、さまざまな政策を実施してきたのである。」(註4 西別府元日『律令国家の展開と地域支配』思文閣出版 2002年 P64引用)
   このことから(「したがって」以降の文に特に注目して欲しいと思います。)律令国家と人民は重税や大規模な建築工事への動員・徴兵といった直接的な負担による摩擦だけでなく、国家の目指す社会制度と現実の社会経済構造の不整合という深刻な問題を抱えており、政府の政策と民衆に対立が起きやすい状態となっていたと考えます。古代人民の視点に立てば、浮浪・逃亡は国家の課す重税への抵抗であると共に国家の基本構想への抵抗という面もあると推測します。繰り返しになりますが、前述の西別府氏の見解から、律令法典が想定している固定的社会と実際の古代日本社会に社会経済構造の不一致があったと思います。その背景として、律令国家の成立過程があると考えます。日本に律令国家が成立した背景としては国際情勢が強く影響していることが一般的によく言われていると思います。これは、社会経済構造に応じて統治制度が構築されずに、統治システムが社会経済構造から強い独立性を持って作られたことになると思います。僕は、律令国家は民衆への様々な配慮を持ちながらも当時の社会経済構造と十分に合致していなかったため、多くの社会矛盾を生む結果となったと推測します。古代史を調査研究する上で引き続き、公私の二重支配、及び社会の実態と制度の不一致に着目していきたいと思います。


遅くなりました@ 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2010年09月19日(日) 19時15分36秒 / ID : 82xcMgWE

  大変遅くなりましたが、丈庵さんの2009年9月25日の御返信における「政府と地方、農民の3者がどのように絡み合うことで実が挙がらなかったのかでしょうか。」について、解答したいと思います。
  政府と地方の思惑が一致していない例として、地方の有力者による班田収受制の悪用が挙げられると思います。吉田孝氏は、在地首長層が勢力を補強するために班田制を利用して良田を集めようとしたことを『続日本紀』延暦10年5月条より指摘しています。[註1 吉田孝「奈良時代の社会と経済」(編者)井上光貞・永原慶二・児玉幸多・大久保利謙『日本歴史大系普及版2 律令国家の展開』山川出版社 1995年 P252参照
  下記に引用するのは、その『続日本紀』延暦10年5月条の該当箇所です。
  史料1(『続日本紀』791年5月条)「A(戊子、是より先、諸の国司等、常荒不用の田を校べ収めて、以て百姓の口分に班てり。徒にその名を受けて租を輸すに堪へず。)B(また、王臣家、国郡司、及殷富の百姓等、或は下田を上田に相易へ、或は便あるを便あらぬに相換ふ。此の如きの類、処に触れて在り。)C(是に、所司に仰せ下して、却りて天平十四年・勝宝七歳等の図籍に拠りて咸く皆改め正さしむ。来年に田を班たむが為なり。)」[註2 (校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀五 新日本古典文学大系16』 岩波書店 1998年 P501引用 英字・( )引用者]
  A( )は次のように述べています。諸国の国司が劣悪な田を収公して、農民に班給している。それでは、租を納入できない。B( )は、有力者が下田を上田に、あるいは不便な土地を便利な土地に交換する行為が行われていると述べています。僕は、この史料と同じように班田収受制を悪用する行為が奈良時代の前半にも既に行われていた可能性があると考えます。それは、農民の不満・生活苦を招き浮浪・逃亡の増加に繋がった可能性もあると思います。ただし、この史料は791年のもので、C( )は792年の班田が適切に施行されるように742年や755年等の資料を用いA・B( )の行為を正すよう指示しています。このことから考えて、奈良時代前半の時点では班田収受制の支配層による悪用が蔓延していたとは思いません。


無題 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2009年10月03日(土) 15時12分13秒 / ID : 6a7l80Cs

  浮浪・逃亡についてDAを再度投稿しました。しかし、これまでに数回再掲載を試みていますが、なぜかすぐに消えるようです。


返信:御返信ありがとうございます。 投稿者:名無しさん
  [書込:返信|新規] 2009年09月26日(土) 22時33分05秒 / ID : t42zCtGA

  私も順番的におかしいなとは思ったのですが、
  もし、原稿があるようでしたら、
  もう一度アップしていただいてもよろしいでしょうか?


御返信ありがとうございます。 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2009年09月26日(土) 14時55分46秒 / ID : t42zCtGA

  浮浪・逃亡についてAが消えてしまっているのは、掲示板の容量の問題でしょうか?


返信:浮浪・逃亡についてDB 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2009年09月25日(金) 22時23分43秒 / ID : u6o5XdU.

  Z.Kさん
  大変ご無沙汰をしております。また、投稿もありがとうございます!
  
  一般的に高校レベルで習う歴史としては、
  律令制を目指しながらも、民衆の困窮により徴税が難しくなり、
  矛盾を抱えたままであった、という感じになろうかと思いますが、
  実際には、挙げていただいた史料のように様々な政策を行っていたわけですね。
  ただ、それが効果を挙げたのかとなれば、
  教科書レベルであれば、効果が挙がらなかったから、
  そのような記述になるのでしょう。
  とすると、最後に書かれていますが、
  政府と地方、農民の3者がどのように絡み合うことで
  実が挙がらなかったのかでしょうか。
  中国などでは、こういった事態が起きていないのかどうか、
  また起きていたとした場合、どのように手を打ったのかといったことも
  気になりますね。


浮浪・逃亡についてDB 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2009年09月16日(水) 18時45分32秒 / ID : 8/4Fp5LM

  これによれば、この政策の目的は浮浪・逃亡人を戻すことです。〔史料2 A( )の箇所について、浮浪・逃亡人を本貫地へ戻す方針から現実の居住地への編入という対策への転換という解釈もありますが、最近では栄原氏と同様に本貫地へ戻すための政策という説が有力なようです。(註3)吉村武彦『日本古代の社会と国家』 岩波書店 1996年 P180 及び西別府元日『律令国家の展開と地域支配』 思文閣出版 2002年 P69〜P71参照〕僕も、律令国家は浮浪・逃亡人の帰郷を目指していたと考えますが、移動先で徴税しても本貫地へは戻らずに別の場所へ逃亡してしまう可能性もあると思います。さらに、本貫地と浮浪先の両方で徴税する場合、本貫地では五保内の農民及び親族が代輸することが戸令に定められていますので、浮浪人が罰則として二重に徴税されるわけではないと思います。したがって、浮浪人の故郷に残った農民の負担が重くなり、さらなる浮浪・逃亡を招く危険があるのではないかと考えます。現時点では未発見ですが、いつかこの対策が招いたと考えられる浮浪・逃亡の実例を発見したいと思います。一方で、浮浪・逃亡者がでないように五保内で相互監視が強まる可能性や浮浪・逃亡先が不明でない限りは税収の確保という点ではある程度有効であると思います。また、除帳の停止が税の軽い畿内で行われたのは、浮浪・逃亡人の保の過重負担の防止を考慮したことや畿内の税収の確保が重視されたことが一因ではないかと思います。史料2のB( )の箇所は、国司・郡司に善政を求めています。特に、飢餓・寒冷による死者が十人を超えた場合は解任するとしている箇所には律令国家の強い決意が表われていると考えます。C( )の箇所は巡察使の派遣を述べています。B( )及びC( )の箇所には、律令国家の儒学的な思想が表れていると共に、律令国家の国司・郡司への不信感・地方政治の乱れを示していると思います。僕は、史料1は、律令国家(中央政府)が農民と国司・郡司(地方政府)の双方に不満を持っていたこと、律令時代の社会的摩擦は律令国家と農民という単純な図式ではなく、律令国家(中央政府)、国司・郡司(地方政府)・農民が複雑に関係していたことを示していると考えます。


浮浪・逃亡についてDC 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2009年09月16日(水) 18時43分44秒 / ID : 8/4Fp5LM

  また、史料2の陸田の活用策も食糧生産を増強して先述のジレンマの解消を目指すと共に、畑地も国家管理化に置こうとした政策であると考えます。
  史料2(『続日本紀』715年10月条)
  「冬十月乙卯、詔して曰はく、「A(国家の隆泰は、要ず、民を富ましむるに在り。民を富ましむる本は、務、貨食に従ふ。)(中略)B〔今、諸国の百姓、産術を尽さず、唯、水沢の種に趣きて、陸田の利を知らず。(中略)佰姓をして、麦禾を兼ね種うること、男夫一人ごとに二段ならしむべし。〕」(註4)(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀二 新日本古典文学大系13』岩波書店 1990年 P5引用 英字・( )〔 〕引用者


浮浪・逃亡についてD−2 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2009年09月16日(水) 18時14分11秒 / ID : 8/4Fp5LM

  傍線部A( )は、国家の繁栄には人民が富むことが必要であると述べています。B〔 〕ではそのための方策を述べています。それは、水田だけでなく陸田(畑地)も耕作すること、そのために、男性一人につき2段を与えるとしています。
   僕は、715年頃の律令国家は社会経済への統制を強めることで、中央集権の強化と社会矛盾の解消を図ろうとしたと考えます。しかし、この時期には目立った人民の負担軽減策は見られなかったと思います。平城京の建設や重税等国家側の搾取による人民の疲弊も大きかったにもかかわらず、その点の改善は非常に不十分であったと思います。
  ※上記の内容は、本来は浮浪・逃亡についてDの末尾でしたが、「本文が長すぎます」との表示が出たため、分割しました。


浮浪・逃亡についてC 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2009年09月16日(水) 18時03分04秒 / ID : 8/4Fp5LM

  ※加筆・修正を繰り返す内に随分長くなってしまいました。返信は急ぎませんので、時間がある時に御覧になって下さい。
   律令制は中国から導入したものですが、隋・唐の均田制と日本の班田収受制を比較した場合、かなり制度的に異なっていると思います。どちらも一長一短があると思いますが、豪族の大土地所有を抑えて国家が直接的に土地と人民を支配することを目指すという点では共通性があると思います。僕は、次の史料には農民の最低限の生活を保障し税収の確保を目指すという班田収受制の目的がよく表れていると思います。
  史料1(養老律令 田令24)
  「A(凡そ田授はむことは、先づ課役に、後に不課役に。)B(先づ無きに、後に少きに。先づ貧しきに、後に富めるに)。」(註1)(校注者)井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫『律令』日本思想大系新装版 岩波書店 1994年 P245引用 英字・( )引用者
  A( )の箇所は、班田収受の際、まず課役を負担する者に給田し、後に課役を負担しない者にも給田することを述べています。これは、税収の確保のためであると考えます。B( )は、給田を田の無い者・貧しい者を優先して行うことを定めています。これは農民の生活基盤の確保と階級分化防止のためであると思います。
   しかしながら、律令国家は支配下の農民と徴税のための摩擦が生じるだけでなく、自らの勢力を拡大したい有力者とも対立が生じることになると思います。さらに、律令国家は自らの基盤強化のためには農民から徴税しなければならないが、それが行き過ぎると農民の生活を破壊してしまうのでジレンマを抱えていたと推測します。そのために、有力者や農民に統制強化と懐柔策が繰り返されることになったのだと考えます。
   例えば、715年は国家統制の強化が目立ったと思います。この時期の国家の律令体制下で生じた矛盾を解決するための基本方針は、社会経済に対する国家統制・国家介入の拡大だと思います。それは、土断法・10月の陸田活用の詔・郷里制(僕は、律令国家が土断法により浮浪・逃亡人からの徴税を強化したのに加えて、地方行政制度自体を強化して効果的に徴税しようとしたのだと思います。ただし、郷里制は717年との説もあります。)等に表れていると思います。これら一連の政府介入強化策は、単純に国家権力の強化を目的にしたものではないと推測します。土断法が出された715年5月の勅も、農民からの徴税強化だけでなく、国司・郡司にも善政を求めて地方政治への統制を強めるものであったと思います。


返信:浮浪・逃亡についてB 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2009年01月25日(日) 00時39分52秒 / ID : D5vqcel6

  結局のところ、日本では近現代にならないと、人権という発想がまともに出てこない訳ですから、国家のあり方としては、いかに民衆を効率よく支配収奪するかという観点になるのかなと思わされます。
  それは、人権思想が発達した今から考えると、ありえない発想ではありますが、逆にその時代からすると、そういった人権擁護的な発想が逆にありえない発想だったのだろうと思えます。そういう時代の移り変わりによる常識の変化はあるのだと考えさせられます。
  そう考えると、今はそういった人権侵害に目くじらを立てる部分も少なからずありますが、昔は当然今ほど話題になることも多くなかったであろう、また、民衆を中心には時代は動いていなかったであろう事からして、こういった民衆の困窮を書き記すということは、よほど困窮具合がひどかったということも伺えるのかと思わされました。


浮浪・逃亡についてB 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2009年01月24日(土) 20時10分02秒 / ID : J3rE7hi2

   前回は、710年頃の民衆の疲弊の要因として、平城京の造営と社会経済構造に注目しましたが、今回は別の要因として蝦夷との戦争に着目したいと思います。対蝦夷戦争のための財政政策について、栄原永遠男氏は次のように述べています。「蝦夷との大規模な戦争の最初は、七〇九年に起こった。二月に陸奥鎮東将軍と征越後蝦夷将軍が任命され、東日本諸国から兵士・兵器・船を徴発している。このことは、財政的には、対蝦夷戦争経費を東日本諸国の地方財政に分担させたことを意味する。以来、この方式は一貫してとられつづける。」(註1栄原永遠男「貢納と財政」(執筆者)吉田孝 八木充 佐藤信 栄原永遠男  熊田亮介 大津透 青木和夫 杉本一樹 平川南 古瀬奈津子『岩波講座 日本通史 第4巻 古代3』岩波書店 1994年 P158引用)律令国家と蝦夷との戦闘はこの後も断続的に長く続きますが、僕は、これは東日本の民衆が律令の規定に加え、戦争のための負担を背負い続けたことを意味すると考えます。東国の人民は大宰府への防人の提供でも負担を持っていましたので、東西の軍事負担を担うこととなりその負担は重かったと思います。律令体制下の民衆の生活について考えると、律令の規定による負担に加え、何らかの臨時的な負担をほぼ恒常的に背負わされていたことに注意する必要があると思います。
   戦争による民衆の疲弊はよく言われていますが、これをどう具体的に示すかが課題となると思います。僕は、戦争による最大の被害は人命の損失だと考えますが、経済学的には労働力と物資の収奪が挙げられると思います。この視点で栄原氏の上記見解の頃の『続日本紀』を検討したいと思います。
  史料@(『続日本紀』709年3月条)
  「壬戌、陸奥・越後の二国の蝦夷、野心ありて馴れ難く、屢良民を害す。(是に、使を遣して遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中等の国を徴り発さしむ。)」[註2(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P147・P149引用 ( )引用者]
  史料A(『続日本紀』709年7月条)
  「秋七月乙卯の朔、従五位上上毛野朝臣安麻呂を陸奥守とす。諸国をして兵器を出羽柵に運び送らしむ。蝦狄を征たむが為なり。○丁卯、(越前・越中・越後・佐渡の四国の船一百艘を征狄所に送らしむ。)」[註3前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』 P151・P153引用 ( )引用者]
  史料B(『続日本紀』709年9月条)
  「己卯、遠江・駿河・甲斐・常陸・信濃・上野・陸奥・越前・越中・越後等の国の士の、征役経ること五十日已上の者に、復一年賜ふ。」[註4前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』 P153引用]
  史料@の( )の箇所からは、7カ国以上から対蝦夷戦の兵士が徴兵されたことがわかると思います。さらに、史料Bから常陸・陸奥・越後からも兵士が動員されたことが確認できますので、少なくとも10カ国以上から出征していると思います。僕は、軍団兵士は通常百日ごとに十日間任務に就くため、非番の時は農業が可能だと思いますが戦時には長期間離脱するため民衆の負担は大きかったと考えます。五〇日以上出征した兵士には賦役令による徭役免除に加えて調が免除されたようですが〔史料B参照・(註5「復一年賜ふ」を調の免除と推測する解釈は、前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P153に従いました。)〕農村に残った家族の負担や死傷者の存在を考えればやはり戦乱による民衆への打撃は大きかったと思います。また、史料Aは対蝦夷戦争による民衆の経済的負担を示していると思います。この史料は、諸国から船・兵器を徴収したことを述べていますが、僕は( )の箇所の船百隻の徴収は特に人民の重い負担となったと考えます。
  僕が注目しているのは、805年の徳政相論で指摘された「軍事」と「造作」による人民の疲弊と同様のことが約100年前に起きていたということです。これは、歴史は繰り返す、あるいは歴史から学ばなかったとも言えると思います。しかし、別の視点で考えると、僕は、どうも律令国家は意欲的に政策に取り組むと、大規模な建設作業や軍事動員で民衆を疲弊させる傾向があるように思います。平城京建設と長岡京・平安京造営の間の8世紀中期にも聖武天皇期の度重なる遷都、国分寺・国分尼寺建立の詔、盧舎那大仏造立の詔、淳仁天皇期の新羅侵攻計画(実施されず)など民衆の負担となる政策が行われています。僕は、律令国家の政策には賑給など社会的弱者に配慮する社会事業的なものが存在したものの、結局は人民の生活よりも国家事業を優先してしまったのではないかと思います。


返信:浮浪・逃亡についてA 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2008年10月17日(金) 00時55分13秒 / ID : UQi9W7Zg

  Z.Kさん ご無沙汰しております。
  
  今回の内容を読むと、
  浮浪・逃亡は平城京造営が根本的な原因として挙げられるが、
  それをかくまうなどして私的に利用する有力者の存在が
  クローズアップされますね。
  そうなると、人民が国家の事業に対して疲弊・困窮して行き
  浮浪・逃亡するという反体制的行動をとるのと同じに、
  畿内の有力者も律令体制の貫徹よりも
  自家の反映を優先するという体制には与しない動きが見て取れそうです。
  国家はそういった有力者をある程度は認めているであろうにもかかわらず、
  有力者の側では特段それをありがたいとは思っていない節があるならば、
  国家の箍がずいぶんと緩んでしまっていることにもなりそうですね。


浮浪・逃亡についてA 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2008年10月13日(月) 18時36分58秒 / ID : tUP6umsg

   歴史の研究において、史料の分析が重要なことは「無用之用」の「歴史ツール」にも記載されています。どういった史料を選ぶかや史料から何を読み取るかが課題となると思いますが、今回は先行研究の基になった史料にあたり自分の分析を深めたいと思います。
   8世紀に浮浪・逃亡の増加を招いた政策として、平城京の建設があると思います。例えば、野村忠夫氏は次のように述べています。「律令体制の末端への貫徹をはかり、その中核として平城造都を強行することは、直接に動員される役民はもちろん、全人民に間接的な重い負担を背負わせることになった。律令政府が和銅二年十月、畿内および近江国の有力者に、浮浪する人民や逃亡した仕丁をかくまい、私的に駆使することを厳禁したことに、その重い負担の一端と、浮浪・逃亡という人民の抵抗の姿を垣間みることができるのである。」(註1)野村忠夫「平城京の経営」 P183引用(編者)井上光貞・永原慶二・児玉幸多・大久保利謙『日本歴史体系普及版2 律令国家の展開』山川出版社 1995年 この野村氏の見解の中で、前半部分の平城京建設が人民にとって重荷となったという点はよく言われています。これは、確実だと思いますが、僕にとっての課題はここからどう研究を深めていくかだと思います。そこで、後半部分の野村氏の指摘に該当する史料を以前から注目している律令国家の社会経済構造を重視して検討したいと思います。
  史料@(『続日本紀』709年10月条)
  A(丙申、禁制すらく、「畿内と近江国との百姓、法律を畏れず、浮浪と逃亡せる仕丁等とを容れ隠して、私に駈り使へり。是に由りて、多く彼に在りて、本郷・本主に還らず。)B(独、百姓、法令を違ひ慢るのみに非ず、亦是れ国司、懲粛を加へねばなり。公私を害蠹すること、斯の弊より過ぎたるは莫し。)
  [註2(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P155引用 英字・( )引用者] 
  まず、A( )の箇所に注目しますと、史料には「人民が平城京の造営に疲弊したため、浮浪・逃亡が増加した。」というような直接的な表現はありませんが、時期を考えれば野村氏が述べている通りだと思います。そして、この史料は農民や仕丁が浮浪・逃亡することを防ごうとしたというよりは浮浪人・逃亡人の私的使役を防止しようとしていると思います。その禁止の対象ですが、野村氏は、上記史料中の「畿内と近江国との百姓」を「畿内近江国の有力者」と解しています(上記の引用を参照)。以前に数回、律令体制下の有力者は国家と共に民衆を二重に支配し、人民の疲弊の一因になったと書きました。しかし、この史料では浮浪人・逃亡人に居場所を与えており、最も弱い立場の人々を支えているとも考えられます。しかしながら、全体的に見れば、中間支配層的な存在の強大化は、これまで書いてきたように私出挙や共有地の占有などにより班田農民を圧迫することになると思います。そう考えれば、平城京の建設で律令体制の末端への貫徹を目指したはずが(上記の野村氏の見解を参照)、負担の増大→浮浪・逃亡の増加と有力者の強大化→律令体制の動揺・不安定化と思惑外れの結果となったと思います。また、浮浪・逃亡した人民も完全に自由となったわけではなく私的に使役されているということも重要だと思います。このことからは、国家による支配は有力者による支配よりもさらに重負担であったことが示唆されると思います。ただし、以前書きましたように、班田農民の場合は国家と地域の有力者の二重に搾取されていた場合があり、仕丁の場合は709年の時点では任期が無制限であることに注意する必要があると思います。
  僕は、平城京の建設は、政治的・文化的な成果はあったと思いますが、社会経済上は不安定性や矛盾を抱えていた構造(例として、史料@のB( )の、浮浪人・逃亡人を使役する側だけでなく、国司が私的使役に懲罰を加えない事にも問題があるとしている点は、国司の怠慢というよりも地域の有力者の影響力が強かったために、取締りを避ける傾向にあったと考えます。これは、公地公民制の不徹底を表していると思います。)を悪化させマイナスとなったと思います。
  


返信:衛士についてA 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2008年08月15日(金) 22時42分25秒 / ID : oy01YZwM

  教科書では、その制度の典型的なものという記載が多いのだろうとは思いますが、
  実際にはこれほど多様な変化が見られるのですね。
  制度を定めてもその内実として、それが正しく履行されているかとなれば、
  それはやはり難しく、いつの時代も苦しむのは庶民という図式は
  変わっていないのだということが、上げていただいた史料から感じますね。


衛士についてA 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2008年08月10日(日) 16時19分21秒 / ID : wPDBzmnk

  史料A(『続日本紀』722年2月条)
  「A(甲午、詔して曰はく、「去りぬる養老五年三月廿七日、兵部卿従四位上阿倍朝臣首名ら奏して言さく、「諸府の衛士、往往に偶語して、逃亡すること禁め難し。)B(然る所以は、壮年にして役に赴き、白首にして郷に帰りぬ。)艱苦弥深くして、遂に疏網に陥る。C(望まくは、三周して相替りて、懐土の心を慰めしめむことを」とまうす。)(中略)D(自後、諸の衛士・仕丁、便ち役年の数を減して、人子の懐を慰めむ。其れ三載を限りて一番と為し、式に依りて与に替へよ。留滞せしむること莫れ」とのたまふ。)」[註3(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀二 新日本古典文学大系13』岩波書店 1990年 P109・111引用 英字・( )引用者]
  A( )で諸府の衛士の逃亡を防止できないと述べた上で、B( )では原因として、任務が終って故郷に帰れるのは老人になった頃であると述べています。その対策として、C( )で衛士・仕丁は三年交代とすることを進言しています。大宝律令では衛士・仕丁の勤務年数は定められていなかったようですので(註4 前掲『続日本紀二 新日本古典文学大系13』P110参照)、この問題は前回に書いた「律令制の未整備・未成熟による人民の疲弊」の一つと捉えることもできると思います。ただし、それよりも制度と実態の違いによる民衆の疲弊という面が大きいと思います。史料@と史料Aを比較すれば、史料@の指示は史料Aの頃には無視されていたということになると思います。これは、大宝律令に衛士の任期が定められていなかったとすれば、衛士の任期を一年と軍防令で定めた養老律令の施行は757年ですから、令には反していないことになります。しかし、『続日本紀』に記載されている詔が守られなかったことは律令制が必ずしも制度通りの運用がされていなかったことを示唆していると思います。また、仕丁はこれにより負担が軽減される(少なくとも制度上は)と思いますが、衛士の任期は史料@の詔で一年に短縮されたはずですから、史料を比較すると負担増となっており、必ずしも順次負担が軽減されたわけではありません。僕は、衛士を一年交代とすることは困難で、史料@の詔は守られなかったため、722年に三年交代として再度勤務年数を短縮する指示が出されたと考えています。
  高校の教科書や資料集には律令制の税制が表になって掲載されていますが、実際の律令制の税制は複雑に変遷しています。この税制の変化を追うことは、律令体制下の民衆がどのような負担に苦しんだかを知る手がかりになると思います。また、令の規程と実情に乖離がなかったかも重要なポイントだと思います。上記の衛士では、711年に任期を1年とするとしたものの守られず、722年には任期を3年とするとされました。しかし、これは調査中ですが、この722年の指示も守られたかどうか疑問に感じます。
  (本文が長すぎますとの表示が出たため2つに分割しました。読みにくくなって申し訳ありません。)


衛士について@ 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2008年08月10日(日) 16時15分49秒 / ID : wPDBzmnk

   律令国家を調査研究する上で、注意が必要なことの一つは高等学校時代に学んだ知識がそのまま使えない場合があることだと思います。律令体制下の民衆の生活を考えるには、当時の税制度やその変遷を正確に理解することが必要だと思いますが、それを詳しく調べれば以前学んだ知識との相違が出てきます。高校の学習に必要な知識としての運脚は、丈庵さんがおっしゃる通り「租は地方財源、庸調は中央財源であり、後者を中央へ運ぶためのものが運脚」であると思います。しかし、「運脚について@」(2月23日投稿)の中の『岩波 日本史辞典』の引用箇所を読み返して頂きたいのですが、正確には調庸の運搬に加えて「正税で交易された進上物の運脚」と「舂米運京」が存在していたのだと思います。同様に、高校時代に学習した知識がそのまま使えなかった例として、衛士があります。衛士とは『岩波 日本史辞典』によれば「律令に規定された中央武力の一つ。左右衛士府・衛門府に所属しており,宮内の警衛,京内の巡回,行幸の供奉等にあたった。一般の公民からなる軍団兵士から交代で勤務することとされていたが,律令制初期から逃亡が多く,次第に弱体化した。」と述べています。〔註1(監修)永原慶二『岩波 日本史辞典』岩波書店 1999年 P125引用〕衛士は、元は農民ですので長期間徴兵されたり、逃亡して帰らなかったりすると故郷の農村にも打撃となると思います。そのこともあって衛士に注目しているのですが、詳しく調べると以前学んだ知識と相違が出てきました。僕は高校生の時から、衛士の任期は一年と覚えていました。これは、養老律令の規定としては正しいのですが、実際はもっと複雑だったようです。『続日本紀』の711年条には、次のような記述があります。
  史料@(『続日本紀』711年9月条)
  「甲戌、詔して曰はく、「凡そ衛士は、非常の設にして、不虞の備なり。 (中略)今より以後、専ら長官に委ね、勇敢にして武に便なる人を簡ひ点して、A(毎年に代易へしめよ)」とのたまふ。」[註2(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P171引用 英字・( )引用者]
  A( )のところで衛士を毎年交代させるように指示していますので、711年以前は衛士の任期は一年以上であったと推測できます。さらに、税負担の実態を掴みにくくするのが次の史料です。(衛士についてAへ)


返信:運脚についてA 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2008年05月26日(月) 00時53分12秒 / ID : N4AHf8UU

  Z.Kさん、ご無沙汰しております。
  
  お忙しい中での投稿、本当にありがとうございます。
  こちらも、ほとんど開店休業状態になってしまっていますが、
  折を見て何らかの更新は続けていこうと思っていますのでよろしくお願いいたします。
  
  さて、租庸調において、庸調は租と明らかに扱いが違うのが史料から非常に良くわかりますね。
  教科書上での一般的な僕の理解としては「租は地方財源、庸調は中央財源であり、後者を中央へ運ぶためのものが運脚」なのですが、その庸調に対しては除外されていると言うことは、この区分けもまた見直した方が良いと言うことになるのでしょうか。
  
  また、中国での制度を見直すというのは非常に良さそうですね。広大な国土ですから、事情が異なるかもしれないですが、大本の制度がどのようになっていたかを知っておく必要は大いにあると思えます。それはそれでなかなか大変な作業になるとは思いますが、この時代の社会経済史を紐解く上では中国との比較や知識は必要そうですね。


運脚についてA 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2008年05月25日(日) 17時46分39秒 / ID : 0GPlHny2

  (色々と忙しかったことや、内容の確認に手間取ったことから投稿時期が大幅に遅れました。まだ間違っている所があるかもしれませんので気付いた方は御指摘下さい。)
  720年に6項からなる民衆の生活困窮への対策が出されていますが、その中の一つに運脚の改善策があります。
  史料@(『続日本紀』720年3月条)
  「但し、百姓、物を運びて京に入り、事了らば即ち早く還らしめよ。A(国に帰る程の粮無きが為に、路に在りて極めて艱辛に難む。)B(望み請はくは、在京に官物を貯へ備へ、公事に因りて物を送り還る毎に、程に准りて粮を給はむことを。)庶はくは、飢弊を免れて早く本土に還らむことを。」[註1(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀二 新日本古典文学大系13』岩波書店 1990年 P71引用 英字・( )引用者]
  A( )の箇所は、京に物資を運搬した農民が帰りの食料が無く、路上で苦しんでいると述べています。その対策として、B( )の箇所で、帰路に応じて食料を支給するように指示しています。僕は、当初この対策は調・庸の運脚を含む全ての運脚を対象としていると考えました。しかし、『続日本紀二 新日本古典文学大系13』に「京に調庸を除く公事の物を運ぶ百姓に帰国の粮を支給することを述べる。」[註2 前掲『続日本紀二 新日本古典文学大系13』 P69引用]とある通り調・庸の運脚は対象から除外されていました。その原因は現時点では明確に解明できていません。ただ、下記の724年の改善策でも調・庸の運脚は対策から除外されており、律令国家は調庸運脚の食料の農民負担にこだわっているように思えます。その原因として、@運脚は調・庸を納める者が負担するという律令制の規程にこだわった法律的な理由、A調庸運脚の食料を国家が支給すれば大きな負担となるという経済上の理由、B @・Aの複合などが考えられますが、もし、@が主因ならば、律令国家は現実を直視しておらず、丈庵さんの御返信にありましたように人民の困窮改善への真剣さを疑う事態だと思います。また、Aが主因だったとしても、運脚の食料を国家が負担できなかったのか?と考えた際に、今年の1月23日投稿の「浮浪・逃亡について@」でも書きましたように租の徴収により蓄積された食料が有効に活用されなかったのではないかという疑問があります。これについては、さらに調査を進めた上で投稿したいと思います。
  史料A(『続日本紀』724年3月条)
  「甲申、七道の諸国をして、国の大小に依りて税稲四万已上廿万束已下を割き取り、毎年に出挙して、その息利を取りて、朝集使の在京と、非時の差使と、調庸を運ぶことを除く外の京に向ふ担夫らとの粮料に充てしむ。」[註3 前掲『続日本紀二 新日本古典文学大系13』P149引用]
   ここでは、諸国に対して出挙により調庸以外の運脚などに対して上京のための食料を用意するよう指示しています。しかし、調庸運脚については無支給でした。僕は、これには、古代国家の社会政策の限界が表れているように思います。
   また、運脚の疲弊について、食料の農民負担以外の問題点として@律令制の未整備・未成熟A駅家・駅馬を使用させないなどの制度上の欠点B社会的分業の未発達、が挙げられると思います。@はこれまでに書いたの食料負担に関する一連の改善策もその一つなのですが、他にも大宝律令施行後に改善された点があります。例えば、吉田孝氏は地域的な運脚の改善策として、調・庸を運搬しやすい物に変更した事例(714年、上総国の調が細布に、728年、美作国の庸米を綿・鉄へ変更)及び、陸路から水路に変更した事例(756年、山陽・南海道諸国からの舂米が海路へ変更)を指摘しています。[註4 吉田孝「奈良時代の社会と経済」(編者)井上光貞・永原慶二・児玉幸多・大久保利謙『日本歴史体系普及版2 律令国家の展開』山川出版社 1995年 P239〜P240参照]僕は、8世紀前半の律令国家は、法的には大宝律令で完成していたものの、現実の社会には社会経済構造と制度の不整合も多く、これも人民の疲弊の一因になったと思います。
   Aについては、仮に運脚が駅家・駅馬を利用できていれば(さらには、物資輸送用の牛車・馬車が用意されていれば)、もっと運脚の負担は軽くなっていたと思います。また、都までの距離が近く運脚の負担が低いはずの京・畿内地域で税が軽い(京・畿内は、調は半減・庸は免除)のは税負担の公平上疑問に思います。
   Bについてですが、律令体制下で、物資輸送に運脚が苦労した後、運送業者として問丸・馬借・車借が発達したことは経済史的には興味深いのですが、当時の律令国家が輸送の専門集団を大規模に組織することは困難であったと思います。
   今後調査したいこととして、律令制は中国で生まれた制度ですが、広大な中国でも調・庸などの物税を都に運搬させていたのかどうか?という疑問が生じました。
  


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