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返信:浮浪・逃亡についてB 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2009年01月25日(日) 00時39分52秒 / ID : D5vqcel6

  結局のところ、日本では近現代にならないと、人権という発想がまともに出てこない訳ですから、国家のあり方としては、いかに民衆を効率よく支配収奪するかという観点になるのかなと思わされます。
  それは、人権思想が発達した今から考えると、ありえない発想ではありますが、逆にその時代からすると、そういった人権擁護的な発想が逆にありえない発想だったのだろうと思えます。そういう時代の移り変わりによる常識の変化はあるのだと考えさせられます。
  そう考えると、今はそういった人権侵害に目くじらを立てる部分も少なからずありますが、昔は当然今ほど話題になることも多くなかったであろう、また、民衆を中心には時代は動いていなかったであろう事からして、こういった民衆の困窮を書き記すということは、よほど困窮具合がひどかったということも伺えるのかと思わされました。


浮浪・逃亡についてB 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2009年01月24日(土) 20時10分02秒 / ID : J3rE7hi2

   前回は、710年頃の民衆の疲弊の要因として、平城京の造営と社会経済構造に注目しましたが、今回は別の要因として蝦夷との戦争に着目したいと思います。対蝦夷戦争のための財政政策について、栄原永遠男氏は次のように述べています。「蝦夷との大規模な戦争の最初は、七〇九年に起こった。二月に陸奥鎮東将軍と征越後蝦夷将軍が任命され、東日本諸国から兵士・兵器・船を徴発している。このことは、財政的には、対蝦夷戦争経費を東日本諸国の地方財政に分担させたことを意味する。以来、この方式は一貫してとられつづける。」(註1栄原永遠男「貢納と財政」(執筆者)吉田孝 八木充 佐藤信 栄原永遠男  熊田亮介 大津透 青木和夫 杉本一樹 平川南 古瀬奈津子『岩波講座 日本通史 第4巻 古代3』岩波書店 1994年 P158引用)律令国家と蝦夷との戦闘はこの後も断続的に長く続きますが、僕は、これは東日本の民衆が律令の規定に加え、戦争のための負担を背負い続けたことを意味すると考えます。東国の人民は大宰府への防人の提供でも負担を持っていましたので、東西の軍事負担を担うこととなりその負担は重かったと思います。律令体制下の民衆の生活について考えると、律令の規定による負担に加え、何らかの臨時的な負担をほぼ恒常的に背負わされていたことに注意する必要があると思います。
   戦争による民衆の疲弊はよく言われていますが、これをどう具体的に示すかが課題となると思います。僕は、戦争による最大の被害は人命の損失だと考えますが、経済学的には労働力と物資の収奪が挙げられると思います。この視点で栄原氏の上記見解の頃の『続日本紀』を検討したいと思います。
  史料@(『続日本紀』709年3月条)
  「壬戌、陸奥・越後の二国の蝦夷、野心ありて馴れ難く、屢良民を害す。(是に、使を遣して遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中等の国を徴り発さしむ。)」[註2(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P147・P149引用 ( )引用者]
  史料A(『続日本紀』709年7月条)
  「秋七月乙卯の朔、従五位上上毛野朝臣安麻呂を陸奥守とす。諸国をして兵器を出羽柵に運び送らしむ。蝦狄を征たむが為なり。○丁卯、(越前・越中・越後・佐渡の四国の船一百艘を征狄所に送らしむ。)」[註3前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』 P151・P153引用 ( )引用者]
  史料B(『続日本紀』709年9月条)
  「己卯、遠江・駿河・甲斐・常陸・信濃・上野・陸奥・越前・越中・越後等の国の士の、征役経ること五十日已上の者に、復一年賜ふ。」[註4前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』 P153引用]
  史料@の( )の箇所からは、7カ国以上から対蝦夷戦の兵士が徴兵されたことがわかると思います。さらに、史料Bから常陸・陸奥・越後からも兵士が動員されたことが確認できますので、少なくとも10カ国以上から出征していると思います。僕は、軍団兵士は通常百日ごとに十日間任務に就くため、非番の時は農業が可能だと思いますが戦時には長期間離脱するため民衆の負担は大きかったと考えます。五〇日以上出征した兵士には賦役令による徭役免除に加えて調が免除されたようですが〔史料B参照・(註5「復一年賜ふ」を調の免除と推測する解釈は、前掲『続日本紀一 新日本古典文学大系12』P153に従いました。)〕農村に残った家族の負担や死傷者の存在を考えればやはり戦乱による民衆への打撃は大きかったと思います。また、史料Aは対蝦夷戦争による民衆の経済的負担を示していると思います。この史料は、諸国から船・兵器を徴収したことを述べていますが、僕は( )の箇所の船百隻の徴収は特に人民の重い負担となったと考えます。
  僕が注目しているのは、805年の徳政相論で指摘された「軍事」と「造作」による人民の疲弊と同様のことが約100年前に起きていたということです。これは、歴史は繰り返す、あるいは歴史から学ばなかったとも言えると思います。しかし、別の視点で考えると、僕は、どうも律令国家は意欲的に政策に取り組むと、大規模な建設作業や軍事動員で民衆を疲弊させる傾向があるように思います。平城京建設と長岡京・平安京造営の間の8世紀中期にも聖武天皇期の度重なる遷都、国分寺・国分尼寺建立の詔、盧舎那大仏造立の詔、淳仁天皇期の新羅侵攻計画(実施されず)など民衆の負担となる政策が行われています。僕は、律令国家の政策には賑給など社会的弱者に配慮する社会事業的なものが存在したものの、結局は人民の生活よりも国家事業を優先してしまったのではないかと思います。


返信:浮浪・逃亡についてA 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2008年10月17日(金) 00時55分13秒 / ID : UQi9W7Zg

  Z.Kさん ご無沙汰しております。
  
  今回の内容を読むと、
  浮浪・逃亡は平城京造営が根本的な原因として挙げられるが、
  それをかくまうなどして私的に利用する有力者の存在が
  クローズアップされますね。
  そうなると、人民が国家の事業に対して疲弊・困窮して行き
  浮浪・逃亡するという反体制的行動をとるのと同じに、
  畿内の有力者も律令体制の貫徹よりも
  自家の反映を優先するという体制には与しない動きが見て取れそうです。
  国家はそういった有力者をある程度は認めているであろうにもかかわらず、
  有力者の側では特段それをありがたいとは思っていない節があるならば、
  国家の箍がずいぶんと緩んでしまっていることにもなりそうですね。


浮浪・逃亡についてA 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2008年10月13日(月) 18時36分58秒 / ID : tUP6umsg

   歴史の研究において、史料の分析が重要なことは「無用之用」の「歴史ツール」にも記載されています。どういった史料を選ぶかや史料から何を読み取るかが課題となると思いますが、今回は先行研究の基になった史料にあたり自分の分析を深めたいと思います。
   8世紀に浮浪・逃亡の増加を招いた政策として、平城京の建設があると思います。例えば、野村忠夫氏は次のように述べています。「律令体制の末端への貫徹をはかり、その中核として平城造都を強行することは、直接に動員される役民はもちろん、全人民に間接的な重い負担を背負わせることになった。律令政府が和銅二年十月、畿内および近江国の有力者に、浮浪する人民や逃亡した仕丁をかくまい、私的に駆使することを厳禁したことに、その重い負担の一端と、浮浪・逃亡という人民の抵抗の姿を垣間みることができるのである。」(註1)野村忠夫「平城京の経営」 P183引用(編者)井上光貞・永原慶二・児玉幸多・大久保利謙『日本歴史体系普及版2 律令国家の展開』山川出版社 1995年 この野村氏の見解の中で、前半部分の平城京建設が人民にとって重荷となったという点はよく言われています。これは、確実だと思いますが、僕にとっての課題はここからどう研究を深めていくかだと思います。そこで、後半部分の野村氏の指摘に該当する史料を以前から注目している律令国家の社会経済構造を重視して検討したいと思います。
  史料@(『続日本紀』709年10月条)
  A(丙申、禁制すらく、「畿内と近江国との百姓、法律を畏れず、浮浪と逃亡せる仕丁等とを容れ隠して、私に駈り使へり。是に由りて、多く彼に在りて、本郷・本主に還らず。)B(独、百姓、法令を違ひ慢るのみに非ず、亦是れ国司、懲粛を加へねばなり。公私を害蠹すること、斯の弊より過ぎたるは莫し。)
  [註2(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P155引用 英字・( )引用者] 
  まず、A( )の箇所に注目しますと、史料には「人民が平城京の造営に疲弊したため、浮浪・逃亡が増加した。」というような直接的な表現はありませんが、時期を考えれば野村氏が述べている通りだと思います。そして、この史料は農民や仕丁が浮浪・逃亡することを防ごうとしたというよりは浮浪人・逃亡人の私的使役を防止しようとしていると思います。その禁止の対象ですが、野村氏は、上記史料中の「畿内と近江国との百姓」を「畿内近江国の有力者」と解しています(上記の引用を参照)。以前に数回、律令体制下の有力者は国家と共に民衆を二重に支配し、人民の疲弊の一因になったと書きました。しかし、この史料では浮浪人・逃亡人に居場所を与えており、最も弱い立場の人々を支えているとも考えられます。しかしながら、全体的に見れば、中間支配層的な存在の強大化は、これまで書いてきたように私出挙や共有地の占有などにより班田農民を圧迫することになると思います。そう考えれば、平城京の建設で律令体制の末端への貫徹を目指したはずが(上記の野村氏の見解を参照)、負担の増大→浮浪・逃亡の増加と有力者の強大化→律令体制の動揺・不安定化と思惑外れの結果となったと思います。また、浮浪・逃亡した人民も完全に自由となったわけではなく私的に使役されているということも重要だと思います。このことからは、国家による支配は有力者による支配よりもさらに重負担であったことが示唆されると思います。ただし、以前書きましたように、班田農民の場合は国家と地域の有力者の二重に搾取されていた場合があり、仕丁の場合は709年の時点では任期が無制限であることに注意する必要があると思います。
  僕は、平城京の建設は、政治的・文化的な成果はあったと思いますが、社会経済上は不安定性や矛盾を抱えていた構造(例として、史料@のB( )の、浮浪人・逃亡人を使役する側だけでなく、国司が私的使役に懲罰を加えない事にも問題があるとしている点は、国司の怠慢というよりも地域の有力者の影響力が強かったために、取締りを避ける傾向にあったと考えます。これは、公地公民制の不徹底を表していると思います。)を悪化させマイナスとなったと思います。
  


返信:衛士についてA 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2008年08月15日(金) 22時42分25秒 / ID : oy01YZwM

  教科書では、その制度の典型的なものという記載が多いのだろうとは思いますが、
  実際にはこれほど多様な変化が見られるのですね。
  制度を定めてもその内実として、それが正しく履行されているかとなれば、
  それはやはり難しく、いつの時代も苦しむのは庶民という図式は
  変わっていないのだということが、上げていただいた史料から感じますね。


衛士についてA 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2008年08月10日(日) 16時19分21秒 / ID : wPDBzmnk

  史料A(『続日本紀』722年2月条)
  「A(甲午、詔して曰はく、「去りぬる養老五年三月廿七日、兵部卿従四位上阿倍朝臣首名ら奏して言さく、「諸府の衛士、往往に偶語して、逃亡すること禁め難し。)B(然る所以は、壮年にして役に赴き、白首にして郷に帰りぬ。)艱苦弥深くして、遂に疏網に陥る。C(望まくは、三周して相替りて、懐土の心を慰めしめむことを」とまうす。)(中略)D(自後、諸の衛士・仕丁、便ち役年の数を減して、人子の懐を慰めむ。其れ三載を限りて一番と為し、式に依りて与に替へよ。留滞せしむること莫れ」とのたまふ。)」[註3(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀二 新日本古典文学大系13』岩波書店 1990年 P109・111引用 英字・( )引用者]
  A( )で諸府の衛士の逃亡を防止できないと述べた上で、B( )では原因として、任務が終って故郷に帰れるのは老人になった頃であると述べています。その対策として、C( )で衛士・仕丁は三年交代とすることを進言しています。大宝律令では衛士・仕丁の勤務年数は定められていなかったようですので(註4 前掲『続日本紀二 新日本古典文学大系13』P110参照)、この問題は前回に書いた「律令制の未整備・未成熟による人民の疲弊」の一つと捉えることもできると思います。ただし、それよりも制度と実態の違いによる民衆の疲弊という面が大きいと思います。史料@と史料Aを比較すれば、史料@の指示は史料Aの頃には無視されていたということになると思います。これは、大宝律令に衛士の任期が定められていなかったとすれば、衛士の任期を一年と軍防令で定めた養老律令の施行は757年ですから、令には反していないことになります。しかし、『続日本紀』に記載されている詔が守られなかったことは律令制が必ずしも制度通りの運用がされていなかったことを示唆していると思います。また、仕丁はこれにより負担が軽減される(少なくとも制度上は)と思いますが、衛士の任期は史料@の詔で一年に短縮されたはずですから、史料を比較すると負担増となっており、必ずしも順次負担が軽減されたわけではありません。僕は、衛士を一年交代とすることは困難で、史料@の詔は守られなかったため、722年に三年交代として再度勤務年数を短縮する指示が出されたと考えています。
  高校の教科書や資料集には律令制の税制が表になって掲載されていますが、実際の律令制の税制は複雑に変遷しています。この税制の変化を追うことは、律令体制下の民衆がどのような負担に苦しんだかを知る手がかりになると思います。また、令の規程と実情に乖離がなかったかも重要なポイントだと思います。上記の衛士では、711年に任期を1年とするとしたものの守られず、722年には任期を3年とするとされました。しかし、これは調査中ですが、この722年の指示も守られたかどうか疑問に感じます。
  (本文が長すぎますとの表示が出たため2つに分割しました。読みにくくなって申し訳ありません。)


衛士について@ 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2008年08月10日(日) 16時15分49秒 / ID : wPDBzmnk

   律令国家を調査研究する上で、注意が必要なことの一つは高等学校時代に学んだ知識がそのまま使えない場合があることだと思います。律令体制下の民衆の生活を考えるには、当時の税制度やその変遷を正確に理解することが必要だと思いますが、それを詳しく調べれば以前学んだ知識との相違が出てきます。高校の学習に必要な知識としての運脚は、丈庵さんがおっしゃる通り「租は地方財源、庸調は中央財源であり、後者を中央へ運ぶためのものが運脚」であると思います。しかし、「運脚について@」(2月23日投稿)の中の『岩波 日本史辞典』の引用箇所を読み返して頂きたいのですが、正確には調庸の運搬に加えて「正税で交易された進上物の運脚」と「舂米運京」が存在していたのだと思います。同様に、高校時代に学習した知識がそのまま使えなかった例として、衛士があります。衛士とは『岩波 日本史辞典』によれば「律令に規定された中央武力の一つ。左右衛士府・衛門府に所属しており,宮内の警衛,京内の巡回,行幸の供奉等にあたった。一般の公民からなる軍団兵士から交代で勤務することとされていたが,律令制初期から逃亡が多く,次第に弱体化した。」と述べています。〔註1(監修)永原慶二『岩波 日本史辞典』岩波書店 1999年 P125引用〕衛士は、元は農民ですので長期間徴兵されたり、逃亡して帰らなかったりすると故郷の農村にも打撃となると思います。そのこともあって衛士に注目しているのですが、詳しく調べると以前学んだ知識と相違が出てきました。僕は高校生の時から、衛士の任期は一年と覚えていました。これは、養老律令の規定としては正しいのですが、実際はもっと複雑だったようです。『続日本紀』の711年条には、次のような記述があります。
  史料@(『続日本紀』711年9月条)
  「甲戌、詔して曰はく、「凡そ衛士は、非常の設にして、不虞の備なり。 (中略)今より以後、専ら長官に委ね、勇敢にして武に便なる人を簡ひ点して、A(毎年に代易へしめよ)」とのたまふ。」[註2(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P171引用 英字・( )引用者]
  A( )のところで衛士を毎年交代させるように指示していますので、711年以前は衛士の任期は一年以上であったと推測できます。さらに、税負担の実態を掴みにくくするのが次の史料です。(衛士についてAへ)


返信:運脚についてA 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2008年05月26日(月) 00時53分12秒 / ID : N4AHf8UU

  Z.Kさん、ご無沙汰しております。
  
  お忙しい中での投稿、本当にありがとうございます。
  こちらも、ほとんど開店休業状態になってしまっていますが、
  折を見て何らかの更新は続けていこうと思っていますのでよろしくお願いいたします。
  
  さて、租庸調において、庸調は租と明らかに扱いが違うのが史料から非常に良くわかりますね。
  教科書上での一般的な僕の理解としては「租は地方財源、庸調は中央財源であり、後者を中央へ運ぶためのものが運脚」なのですが、その庸調に対しては除外されていると言うことは、この区分けもまた見直した方が良いと言うことになるのでしょうか。
  
  また、中国での制度を見直すというのは非常に良さそうですね。広大な国土ですから、事情が異なるかもしれないですが、大本の制度がどのようになっていたかを知っておく必要は大いにあると思えます。それはそれでなかなか大変な作業になるとは思いますが、この時代の社会経済史を紐解く上では中国との比較や知識は必要そうですね。


運脚についてA 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2008年05月25日(日) 17時46分39秒 / ID : 0GPlHny2

  (色々と忙しかったことや、内容の確認に手間取ったことから投稿時期が大幅に遅れました。まだ間違っている所があるかもしれませんので気付いた方は御指摘下さい。)
  720年に6項からなる民衆の生活困窮への対策が出されていますが、その中の一つに運脚の改善策があります。
  史料@(『続日本紀』720年3月条)
  「但し、百姓、物を運びて京に入り、事了らば即ち早く還らしめよ。A(国に帰る程の粮無きが為に、路に在りて極めて艱辛に難む。)B(望み請はくは、在京に官物を貯へ備へ、公事に因りて物を送り還る毎に、程に准りて粮を給はむことを。)庶はくは、飢弊を免れて早く本土に還らむことを。」[註1(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀二 新日本古典文学大系13』岩波書店 1990年 P71引用 英字・( )引用者]
  A( )の箇所は、京に物資を運搬した農民が帰りの食料が無く、路上で苦しんでいると述べています。その対策として、B( )の箇所で、帰路に応じて食料を支給するように指示しています。僕は、当初この対策は調・庸の運脚を含む全ての運脚を対象としていると考えました。しかし、『続日本紀二 新日本古典文学大系13』に「京に調庸を除く公事の物を運ぶ百姓に帰国の粮を支給することを述べる。」[註2 前掲『続日本紀二 新日本古典文学大系13』 P69引用]とある通り調・庸の運脚は対象から除外されていました。その原因は現時点では明確に解明できていません。ただ、下記の724年の改善策でも調・庸の運脚は対策から除外されており、律令国家は調庸運脚の食料の農民負担にこだわっているように思えます。その原因として、@運脚は調・庸を納める者が負担するという律令制の規程にこだわった法律的な理由、A調庸運脚の食料を国家が支給すれば大きな負担となるという経済上の理由、B @・Aの複合などが考えられますが、もし、@が主因ならば、律令国家は現実を直視しておらず、丈庵さんの御返信にありましたように人民の困窮改善への真剣さを疑う事態だと思います。また、Aが主因だったとしても、運脚の食料を国家が負担できなかったのか?と考えた際に、今年の1月23日投稿の「浮浪・逃亡について@」でも書きましたように租の徴収により蓄積された食料が有効に活用されなかったのではないかという疑問があります。これについては、さらに調査を進めた上で投稿したいと思います。
  史料A(『続日本紀』724年3月条)
  「甲申、七道の諸国をして、国の大小に依りて税稲四万已上廿万束已下を割き取り、毎年に出挙して、その息利を取りて、朝集使の在京と、非時の差使と、調庸を運ぶことを除く外の京に向ふ担夫らとの粮料に充てしむ。」[註3 前掲『続日本紀二 新日本古典文学大系13』P149引用]
   ここでは、諸国に対して出挙により調庸以外の運脚などに対して上京のための食料を用意するよう指示しています。しかし、調庸運脚については無支給でした。僕は、これには、古代国家の社会政策の限界が表れているように思います。
   また、運脚の疲弊について、食料の農民負担以外の問題点として@律令制の未整備・未成熟A駅家・駅馬を使用させないなどの制度上の欠点B社会的分業の未発達、が挙げられると思います。@はこれまでに書いたの食料負担に関する一連の改善策もその一つなのですが、他にも大宝律令施行後に改善された点があります。例えば、吉田孝氏は地域的な運脚の改善策として、調・庸を運搬しやすい物に変更した事例(714年、上総国の調が細布に、728年、美作国の庸米を綿・鉄へ変更)及び、陸路から水路に変更した事例(756年、山陽・南海道諸国からの舂米が海路へ変更)を指摘しています。[註4 吉田孝「奈良時代の社会と経済」(編者)井上光貞・永原慶二・児玉幸多・大久保利謙『日本歴史体系普及版2 律令国家の展開』山川出版社 1995年 P239〜P240参照]僕は、8世紀前半の律令国家は、法的には大宝律令で完成していたものの、現実の社会には社会経済構造と制度の不整合も多く、これも人民の疲弊の一因になったと思います。
   Aについては、仮に運脚が駅家・駅馬を利用できていれば(さらには、物資輸送用の牛車・馬車が用意されていれば)、もっと運脚の負担は軽くなっていたと思います。また、都までの距離が近く運脚の負担が低いはずの京・畿内地域で税が軽い(京・畿内は、調は半減・庸は免除)のは税負担の公平上疑問に思います。
   Bについてですが、律令体制下で、物資輸送に運脚が苦労した後、運送業者として問丸・馬借・車借が発達したことは経済史的には興味深いのですが、当時の律令国家が輸送の専門集団を大規模に組織することは困難であったと思います。
   今後調査したいこととして、律令制は中国で生まれた制度ですが、広大な中国でも調・庸などの物税を都に運搬させていたのかどうか?という疑問が生じました。
  


返信:語句の訂正について 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2008年05月06日(火) 22時41分56秒 / ID : z240DTfA

  Z.Kさん ありがとうございます。
  お忙しい中でも色々調査されているようで頭の下がる思いです。
  時間のあるときで構いませんのでまたよろしくお願いいたします。
  
  > 「運脚の食料は自弁」
  
  という表現は良く聞くところですが、
  直接的な従事者のみが負担するわけではない
  ということなのですね。
  無知なことに初めて知りました。
  それは声を大にしておいても良いかもしれないですね。
  言葉ひとつ、たった一文字でも伝わらないことがあると言うのは
  大変なことではありますが、
  ぜひともそれを操ってまいりましょう!


語句の訂正について 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2008年05月06日(火) 19時43分07秒 / ID : z240DTfA

   運脚についてAは、色々と忙しかったことや、内容の確認に手間取ったことから投稿時期が大幅に遅れていますが近いうちに完成させたいと思います。
   運脚について@で、僕は運脚の食料負担について国家による食料支給の反対の言葉として「自己負担」という言葉を使いました。しかし、引用した『岩波 日本史辞典』にある通り食料は運脚に従事する農民本人だけでなく調庸を納める戸が負担することになっていたのですから「自己負担」という言葉は適切でなかったと思います。今後は、「農民による負担」又は「(律令国家の調庸運脚への)食料の無支給」と表記したいと思います。
  ※「運脚の食料は自弁」という表現は用いられることがあり、訂正が必要かどうか迷いましたが、やはり現実の負担状況を考えた場合「自己負担」という言い方は適切でないと思い訂正を掲載させてもらうことにしました。
  


返信:運脚について@ 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2008年02月24日(日) 21時06分19秒 / ID : 8K7afN/k

  運脚など、この当時の長距離移動に関しては、公務においても
  自弁というのは、ど素人でも大いなる負担になるであろうことは
  想像に難くない部分ではないかと思います。
  やはり、国家としても対策を段階的に採っていたと言うことなわけですね。
  とはいえ、全体的に改善しようという意思が本当にあったのか否か
  かなり疑問の余地が残るような気がします。
  経済も交通も未発達の中で、役人の移動を管理していくというのは
  困難なことだと感じます。


運脚について@ 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2008年02月23日(土) 14時04分41秒 / ID : vDFsdMzI

  古代民衆の困窮の中で、運脚についての現時点での調査結果です。『岩波 日本史辞典』は運脚について次のように述べています。「律令制において、調庸などの貢納物の地方から中央への輸送に、国司・郡司に指揮されて従事した者。担夫・脚夫とも。徒歩で物資を担いで輸送する。調庸を納める戸が運脚とその食料を出した。正税で交易された進上物の運脚には国司が食料を支給した。724(神亀1)以後は、舂米運京にも公粮を支給。」〔註1(監修)永原慶二『岩波 日本史辞典』岩波書店 1999年 P118引用〕 僕が注目しているのは、第1点目に運脚の疲弊が問題となり、改善策が取られていったにもかかわらず、調庸運脚の食料自己負担制は継続されたことです。第2点目として、正税で交易した進上物や舂米の運脚には食料が支給されたということは、調庸運脚にも国家による食料の支給が可能であったのではないかということです。前に書いた田租の使用状況はさらにその思いを強くさせます。
  続いて、運脚の疲弊と改善策を示した史料を幾つか検討したいと思います。
  史料@(『続日本紀』712年10月条)
  「乙丑、詔して曰はく、「A(諸国の役夫と運脚の者と、郷に還る日、粮食乏少にして、達ること得るに由无し。)B(郡稲を割きて別に便の地に貯へ、役夫の到るに随ひて任に交易せしむべし。また、行旅の人をして必ず銭を齎ちて資とし、因て重担の労を息め、亦銭を用ゐる便を知らしめよ)」とのたまふ。」[註2(校注者)青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸『続日本紀一 新日本古典文学大系12』岩波書店 1989年 P189引用 英字・( )引用者]
  A( )の部分は役夫・運脚が帰途の食料が欠乏して苦しんでいると述べています。これと同じような現象が平城京造営の役民で発生しています。(史料『続日本紀』712年1月条参照)僕は、律令国家による課役特有の民衆への打撃として交通が未発達な中で遠距離移動を強いられる点があると思います。−僕は、単純に税率で表せない負担としてこの点に注目しています。対策として、B( )の箇所で旅人のために郡稲を用意し、旅人は貨幣を持つようにと述べています。しかし、これでは郡稲は貨幣による購入であり、役民・運脚の食料が自己負担であることに変わりはなく、大きな改善は期待できないと思います。B( )の後半部分で食料を持つ重さが軽減されると述べていますが、僕はこの対策の効果は限定的であったと考えます。この後、繰り返し運脚の改善策が『続日本紀』に表れることもそれを示していると思います。次の改善策については、次回に投稿したいと思います。
  


返信:ありがとうございます 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2008年02月03日(日) 22時07分00秒 / ID : xgrvOAqM

  歴史に興味のある方には
  もっともっと奥の深さを知ってほしいという思いでいますので、
  ぜひいずれかの機会に一歩踏み出してみてくださいね!
  


ありがとうございます 投稿者:
  [書込:返信|新規] 2008年02月03日(日) 21時14分31秒 / ID : xgrvOAqM

  昨日質問したばかりですのに、こんなにも早く、
  解りやすく、そして詳しい説明をしてくださり、ありがとうございました。 
  
   政所には「執事」もいた、ということですね。
   「別当」の補佐に当たる「所司」もいた訳けですから、
   そのあたりの詳しい仕組みが気になります。
   テストに出るわけではないので、教えていただいたことを参考に、
   ゆっくりと気長に資料をあさっていきたいと思います。 
   
   
  「吾妻鏡」は以前から読んでみたいと思ってはいたものの、
  歴史的背景をつかめないうちは難しそうだと思い、断念していました。
  是非、参考文献を見て、読んでみたいと思います。


返信:初めまして。 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2008年02月03日(日) 11時18分09秒 / ID : xgrvOAqM

  凛さん、はじめまして。
  お越しいただきありがとうございます。
  このHPが多少なりともお役に立っているならば幸いです。
  
  鎌倉時代の政所、侍所、問注所の長官に関してのご質問ですね。
  僕も早速少しではありますが、当たってみました。
  
  まず、政所ですが、頼朝も設置はしていますが、
  平安時代中期より設置されているものです。
  一方問注所は頼朝が新しく設置したものですので、成立年代は違います。
  
  さて、そもそもの別当という言葉ですが、
  律令官制できちんと官を定められている人が
  「別」の機関の長官職に「当」たることが由来ですが、
  後には専任でも別当というようになりました。
  執事は院別当の統括者、摂関家の家政の掌握者のことをいいましたが、
  鎌倉時代には問注所などの長のことを指していいました。
  
  政所の別当は結局は北条氏が世襲していきますが、
  執事もいて二階堂氏が世襲していきます。
  室町時代の1379年には別当が置かれなくなってしまったので、
  執事が長官になります。
  
  優越という点で言えば、政所には別当も執事もあったわけですから
  別当の方が上になります。
  (今の衆議院と参議院のように優越が明確に定められていたかについては
  調べていないので何ともいえませんが)
  
  名称としてはもちろん違いますが、長官である、という点においては
  意味的には似通ったものと考えてよいのではないでしょうか。
  (どなたか補足・訂正してくださる方がいらしたらよろしくお願いします!)
  
  参考文献としては、
  鎌倉時代の正史といえるものに、内容の吟味には慎重さを要しますが、
  『吾妻鏡』があります。
  とはいえ、原書などをいきなり読むのは難しいと思いますので、
  鎌倉時代について広範に書かれているものから入ると良いと思います。
  簡単な所では『國史大辞典』の項目の最後には参考文献が出ていますので、
  見てみるとよいかもしれません。
  


初めまして。 投稿者:
  [書込:返信|新規] 2008年02月02日(土) 19時55分17秒 / ID : CdWcU7uk

   はじめまして。歴史が好きで、色々なサイトを見てまわっていたところ、
  こちらのサイトさんにたどり着きました。とても参考になります。
  学術的な内容を伴うのか自信が無いのですが、自力で調べてもわからず、
  どの資料で調べたら良いのかわらず、教えていただきたい事があるので、
  こちらの掲示板を使用させていただきました。
   
   鎌倉時代には、政所、侍所、問注所と三つの役職がありましたよね。
  何故、問注所のトップはは「別当」ではなく、「執事」なのでしょうか?
  政所と問注所は同じ時期に出来たと記憶しておりますが・・・。
  そして、室町時代になると、政所の長官はトップは執事ですよね。
  「執事」と「別当」は、単なる名称の違いだけでなく、
  優越などがあったり、なれる人の条件が合ったりするのでしょうか?
   
   授業時にふと気になったのですが、調べてもなかなか資料がありません。
  もしご存知でしたら、教えていただければ、と、思います。
  なお、参考文献などもありましたら、教えてください。
   


返信:浮浪・逃亡について@ 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2008年01月27日(日) 20時34分33秒 / ID : 9NmM5JeI

  まずご質問に対してのお答えですが、骨太と日本史の記述が曖昧である事に起因しており、申しわけなかったのですが、徴税そのものは毎年、6年ごとというのは戸籍の作成のこととなります。
  Z.Kさんの仰るとおり、賑給への使用については有効性に疑問を感じる先行研究が多いようですね。そうなると、それを補完するほかの資料や、社会的な状況を挙げられれば、よりその論が強化されそうですね。
  


浮浪・逃亡について@ 投稿者:Z.K
  [書込:返信|新規] 2008年01月23日(水) 17時26分20秒 / ID : ZqYMyxyk

  古代民衆の浮浪・逃亡は、大学時代から注目してきたことで僕の古代史に関する調査・研究の出発点でもあります。特に長山泰孝氏の「生活の防衛と抵抗」の次の箇所は今でも強く印象に残っています。「その意味で農民の反税運動こそは律令支配体制の矛盾を集中的にあらわすものであった。(中略)農民がみせた反税の動きのなかでもっとも広汎に行なわれたのは逃亡であった。」(注1)長山泰孝「生活の防衛と抵抗」(編集委員代表)門脇禎二『日本生活文化史2 庶民生活と貴族生活』河出書房新社 1975年 P212引用 困窮した古代民衆が浮浪・逃亡を行ったことは、奈良時代の社会経済状況に関する文献によく出てきます。しかし、浮浪・逃亡の原因・背景を調査するには、「律令体制下における農民の浮浪・逃亡」として調べるだけでなく、もっと細かく分類しなければ有効な効果は得られないと思います。例えば、@律令国家の税制度 A律令国家の土地制度 B @・A以外の社会経済構造上の問題点 C律令制の運用上の問題 として調査するべきだと思います。注目点として、@では税制の変遷の中には、農民が浮浪・逃亡等により律令国家から減税などの譲歩を引き出した抵抗の成果とも言えるものがあると思います。−これが、農民の抵抗の最大の意義であったと思います。−そのため、税制の変遷は農民がどのように重税に苦しんだかを知る手がかりであると考えます。Aについては、浮浪・逃亡にはよく重税が指摘されると思いますが、それ以外にも班田収受制が制度通り実行されたのかや制度自体の問題点なども調査すべきだと思います。Bについての注目点は、すでに何度か投稿しました国家と豪族の二重搾取の問題や租などにより備蓄した食糧の活用についての疑問点があります。Cとして、蝦夷・隼人との戦争や平城京・平安京の造営などがあります。
  具体的なことは、次回以降に投稿したいと思いますが、今回、租について僕が注目している点を書きたいと思います。岩波書店『律令』の税制に関する解説には次のような記述があります。「天平時代の正税帳によれば、毎年徴収される田租は、もっぱらその国で遠年貯備され、使用例としては恩勅による賑給などがわずかに見出されるにすぎない。」(注2)(校注者)井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫『律令』岩波書店 1976年 P570引用
  まず、丈庵さんへの御質問なのですが、上記の『律令』の記事を読む限りにおいては、租は毎年徴収していたように思えるのですが、「骨太日本史−中学生向け通史・大和3/奈良」にある通り徴収は6年に一度だったのでしょうか?(日本史辞典や高校の時の参考書も確認しましたが、6年に一度という記述はみつかりませんでした。今回は誤字の指摘ではなく、完全な質問ですので公開の掲示板を使わせて頂きました。税制が変更された可能性や複数の説がある可能性もあると思います。) 次にこれを読んだ感想として、古代国家の社会政策の限界を表しているように思います。『続日本紀』には前に「慶雲の改革についてA」で投稿したように賑給に関する記述が多くあるのですが、賑給への使用がわずかというのでは有効性に疑問を抱きます。(ただし、義倉はあったのですが。)さらに、賑給以外にも調庸の運脚や兵役への手当てなど民衆のために使うべきところは沢山あったはずで不可解に思います。これについては、さらに調査を続けたいと思います。
   一方、古代人民の浮浪・逃亡という全体的な問題としては大学時代の経済史の本を読み返していた所ある疑問が生じたのですが、これについては次回以降に投稿したいと思います。
  


返信:無題 投稿者:丈庵
  [書込:返信|新規] 2008年01月06日(日) 20時58分27秒 / ID : ndxm2zJg

  Z.Kさん
  
  地道に調査が続いているようで素晴らしいですね!
  やはりこれを拝見しますと、国家の理念による支配と、豪族の慣習による支配が衝突した時、国家として取るべき、守らせるべき道として詔を追加しているように見えますね。
  そうすると国家としては、過酷にしすぎて農民が疲弊し過ぎないように、という農民を思いやるものにも思えますが、税金を取りはぐれないように、それによる国家の傾きを防ぎたいが、豪族には面と向かっていいがたい、といった板ばさみというか、権力がまだ磐石ではないような雰囲気も感じますね。


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